れ。こんな外泊は人の中傷の種になるのだから気をつけてくれるように」
と命じた。訳のあることに相違ないと思ってその男は去った。それから大将は女房に、
「道もわからなくなりましたからここでごやっかいになりましょう、かないますならこの御簾《みす》の前を拝借させてください。阿闍梨《あじゃり》の御用が済むまでです」
と落ち着いたふうで言うのであった。これまではこんなに長居をしたこともなく、浮薄な言葉も出した人ではなかったのに、困ったことであると宮はお思いになったが、わざとがましく隣室へ行ってしまうことも体裁のよいものでないような気があそばされるので、ただ音をたてぬようにしてそのままおいでになると、思ったことを吐露し始めた大将は、お心の動くまでというように、いろいろと言葉を尽くすのであったが、宮へお取り次ぎにいざり入る人の後ろからそっと御簾をくぐって来た。夕霧が盛んに家の中へ流れ込むころで、座敷の中が暗くなっているのである。その女房は驚いて後ろを見返ったが、宮は恐ろしくおなりになって、北側の襖子《からかみ》の外へいざって出ようとあそばされたのを、大将は巧みに追いついて手でお引きとめした。もうお身体《からだ》は隣の間へはいっていたのであるが、お召し物の裾《すそ》がまだこちらに引かれていたのである。襖子は隣の室の外から鍵《かぎ》のかかるようにはなっていないために、それをおしめになったままで、水のように宮は慄《ふる》えておいでになった。女房たちも呆然《ぼうぜん》としていていかにすべきであるかを知らない。こちらの室には鍵があっても、この場合をどうすればよいかに皆当惑したのである。無理やりに荒々しく手を宮のお召し物から引き放させるようなこともできる相手ではなかった。
「御尊敬申し上げておりますあなた様がこんなことをなさいますとは思いもよらぬことでございます」
と言って、泣かんばかりに退去を頼むのであるが、
「これほどの近さでお話を申し上げようとするのを、なぜあなたがたは不思議になさるのでしょう。つまらぬ私ですが、真心をお見せすることになって長い年月も重なっているはずです」
と女房らに答えてから、大将は優美な落ち着きを失わずに、美しいこの恋を成り立たせなければならぬことを宮へお説きするのであった。宮は御同意をあそばすべくもない。こんな侮辱までも忍ばねばならぬかというお気持ちばかりが湧《わ》き上がるのであるから何を言うこともおできにならない。
「あまりに少女《おとめ》らしいではありませんか。思い余る心から、しいてここまで参ってしまったことは失礼に違いございませんが、これ以上のことをお許しがなくてしようとは存じておりません。この恋に私はどれだけ煩悶《はんもん》に煩悶を重ねてきたでしょう。私が隠しておりましても自然お目にとまっているはずなのですが、しいて冷たくお扱いになるものですから、私としてはこのほかにいたしようがないではございませんか。思いやりのない行動として御反感をお招きしても、片思いの苦しさだけは聞いていただきたいと思います。それだけです。御冷淡な御様子はお恨めしく思いますが、もったいないあなた様なのですから、決して、決して」
と言って、大将はしいて同情深いふうを見せていた。あるところまでよりしまらぬ襖子《からかみ》を宮がおさえておいでになるのは、これほど薄弱な防禦《ぼうぎょ》もないわけなのであるが、それをしいてあけようとも大将はしないのである。
「これだけで私の熱情が拒めると思召《おぼしめ》すのが気の毒ですよ」
と笑っていたが、やがておそばへ近づいた。しかも御意志を尊重して無理はあえてできない大将であった。宮はなつかしい、柔らかみのある、貴女《きじょ》らしい艶《えん》なところを十分に備えておいでになった。続いてあそばされたお物思いのせいかほっそりと痩《や》せておいでになるのが、お召し物越しに接触している大将によく感ぜられるのである。しめやかな薫香《くんこう》の匂《にお》いに深く包まれておいでになることも、柔らかに大将の官能を刺激《しげき》する、きわめて上品な可憐《かれん》さのある方であった。
吹く風が人を心細くさせる山の夜ふけになり、虫の声も鹿《しか》の啼《な》くのも滝の音も入り混じって艶《えん》な気分をつくるのであるから、ただあさはかな人間でも秋の哀れ、山の哀れに目をさまして身にしむ思いを知るであろうと思われる山荘に、格子もおろさぬままで落ち方になった月のさし入る光も大将の心に悲しみを覚えさせた。
「まだ私の心持ちを御理解くださらないのを拝見しますと、私はかえってあなた様に失望いたしますよ。こんなに愚かしいまでに自己を抑制することのできる男はほかにないだろうと思うのですが、御信用くださらないのですか。何をいたしても責任感を持たぬ種類の男には、私のようなのをばかな態度だとして、直ちに同情もなく力で解決をはかってしまうのです。あまりに私の恋の価値を軽く御覧になりますから、知らず知らず私も危険性がはぐくまれてゆく気がいたします。男性とはどんなものかを過去にまだご存じでなかったあなた様でもないでしょう」
こう責められておいでになる宮は、どう返辞をしてよいかと苦しく思っておいでになる。もう処女でないからということを言葉にほのめかされるのを残念に宮はお思いになった。薄命とは自分のような女性をいうのであろうともお悲しまれになって、大将のいどんで来るのを死ぬほど苦しく思召された。
「私のこれまでの運命はどんなにまずいものでございましても、それだからといって、これを肯定しなければならないとは思われない」
と、ほのかに可憐な泣き声をお立てになって、
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われのみや浮き世を知れるためしにて濡《ぬ》れ添ふ袖《そで》の名を朽《く》たすべき
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ほかへお言いになるともなくお言いになったのを、大将がさらに自身の口にのせて歌うのさえ宮は苦痛にお思いになった。
「誤解をお受けしやすいようなことを私が申したものですから」
などと言って、微笑するふうで、
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「おほかたはわが濡れ衣をきせずとも朽ちにし袖の名やは隠るる
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もうしかたがないと思召してくだすったらどうですか」
こう言って、月の光のあるほうへいっしょに出ようと大将はお勧めするのであるが、宮はじっと冷淡にしておいでになるのを、大将はぞうさなくお引き寄せして、
「安価な恋愛でなく、最も高い清い恋をする私であることをお認めになって、御安心なすってください。お許しなしに決して、無謀なことはいたしません」
こうきっぱりとしたことを大将が言っているうちに明け方に近くもなった。澄み切った月の、霧にも紛れぬ光がさし込んできた。短い庇《ひさし》の山荘の軒は空をたくさんに座敷へ入れて、月の顔と向かい合っているようなのが恥ずかしくて、その光から隠れるように紛らしておいでになる宮の御様子が非常に艶《えん》であった。故人の話も少ししだして、閑雅な態度で大将は語っているのであった。しかもその中で故人に対してよりも劣ったお取り扱いを恨めしがった。宮のお心の中でも、故人はこの人に比べて低い地位にいた人であるが、院も御息所《みやすどころ》も御同意のもとでお嫁《とつ》がせになって自分はその人の妻になったのである、その良人《おっと》すら自分に対していだいていた愛はいささかなものであった、ましてこうしてあるまじい恋に堕《お》ちては、しかも知らぬ中でなく、故人の妹を妻に持つこの人との名が立っては、太政大臣家ではどう自分を不快に思うことであろう、世間で譏《そし》られることも想像されるが、それよりも院がお聞きになってどう思召すであろう、必ずお悲しみあそばすであろうなどと、切り離すことのできぬ関係の所々のことをお考えになると、このことが非常に情けなくお思われになって、自分はやましいところもなく、大将の情人では断じてなくとも噂《うわさ》はどんなふうに立てられることか、御息所が少しも関与しておいでにならぬことが子として罪であるように思召され、こんなことをあとでお聞きになり、幼稚な心からときがたい誤解の原因を作ったとお言いになろうこともわびしく御想像あそばされる宮は、
「せめて朝までおいでにならずにお帰りなさい」
と大将をお促しになるよりほかのことはおできにならないのである。
「悲しいことですね。恋の成り立った人のように分けて出なければならない草葉の露に対してすら私は恥ずかしいではありませんか。ではお言葉どおりにいたしますから、私の誠意だけはおくみとりください。馬鹿正直に仰せどおりにして帰ります私に、若し、上手《じょうず》に追いやってしまったのだというふうを今後お見せになることがありましたなら、その時にはもう自制の力をなくして情熱のなすがままに自分をまかせなければならなくなることと思いますよ」
大将は心残りを多く覚えるのであるが、放縦な男のような行為は、言っているごとく過去にも経験したことがなく、またできない人であって、恋人の宮のためにもおかわいそうなことであり、自分自身の思い出にも不快さの残ることであろうなどと思って、自他のために人目を避ける必要を感じ、深い霧に隠れて去って行こうとしたが、魂がもはや空虚《うつろ》になったような気持ちであった。
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「萩原《はぎはら》や軒端《のきば》の露にそぼちつつ八重立つ霧を分けぞ行くべき
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あなたも濡衣《ぬれぎぬ》をお乾《ほ》しになれないでしょう。それも無情に私をお追いになった報いとお思いになるほかはないでしょう」
と大将が言った。そのとおりである。名はどうしても立つであろうが、自分自身をせめてやましくないものにしておきたいと思召す心から、宮は冷ややかな態度をお示しになって、
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「わけ行かん草葉の露をかごとにてなほ濡衣をかけんとや思ふ
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ひどい目に私をおあわせになるのですね」
と批難をあそばすのが、非常に美しいことにも、貴女らしいふうにもお見えになった。今まで古い情誼《じょうぎ》を忘れない親切な男になりすまして、好意を見せ続けて来た態度を一変して好色漢になってしまうことが宮にお気の毒でもあり、自身にも恥ずかしいと、大将は心に燃え上がるものをおさえていたが、またあまり過ぎた謙抑《けんよく》は取り返しのつかぬ後悔を招くことではないかともいろいろに煩悶《はんもん》をしながら帰って行くのであった。深い山里の朝露は冷たかった。夫人がこの濡れ姿を見とがめることを恐れて大将は家へは帰らずに六条院の東の花散里《はなちるさと》夫人の住居《すまい》へ行った。まだ朝霧は晴れなかった。町でもこんなのであるから、小野の山荘の人はどんなに寂しい霧を眺めておいでになるであろうと大将は思いやった。
「珍しくお忍び歩きをなさいましたのですよ」
と女房たちはささやいていた。
夕霧の大将はしばらく休息をしてから衣服を脱ぎかえた。平生からこの人の夏物、冬物を幾|襲《かさね》となく作って用意してある養母であったから、香の唐櫃《からびつ》からすぐに品々が選び出されたのである。朝の粥《かゆ》を食べたりしたあとで夫人の居間へ夕霧ははいって行った。夕霧はそこから小野へ手紙をお送りした。
山荘の宮は予想もあそばさなかった、にわかな変わった態度を男のとり出した昨夜《ゆうべ》のことで、無礼なとも、恥を見せたともお思いになることで夕霧への御反感が強かった。御息所の耳へはいることがあったならと羞恥《しゅうち》をお覚えになるのであるが、またそんなことがあったとは少しも御息所が知らずにいて、不意に何かのことから気のついた時に、隔て心があるように思われるのも苦しい、女房がありのままを話すことによって母を悲しませることがあってもやむをえないと宮はおあきらめになるよりほかはなかった。親子と申してもこれほど親しみ合う仲は少ない母と御子なのである。世間に噂の立
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