ぼしめ》されて、いっさいほかのことはお思いになれなかった。
 あの衛門督《えもんのかみ》は中納言になっていた。衛門督の官も兼ねたままである。当代の天子の御信任を受けてはなやかな勢力のついてくるにつけても、失恋の苦を忘れかねて、女三の宮の姉君の二の宮と結婚をした。これは低い更衣《こうい》腹の内親王であったから、心安い気がして格別の尊敬を妻に払う必要もないと思って、院からお引き受けをしたのである。普通の人に比べてはすぐれた女性ではおありになったが初めから心に沁《し》んだ人に変えるだけの愛情は衛門督に起こらなかった。ただ人目に不都合でないだけの良人《おっと》の義務を尽くしているに過ぎないのであった。今も以前の恋の続きにその方のことを聞き出す道具に使っている女三の宮の小侍従という女は、宮の侍従の乳母《めのと》の娘なのである。その乳母の姉が衛門督の乳母であったから、この人は少年のころから宮のお噂《うわさ》を聞いていた。お美しいこと、父帝が溺愛《できあい》しておいでになることなどを始終聞かされていたのがこの恋の萌芽《きざし》になったのである。
 六条院が病夫人と二条の院へお移りになっていて、ひまであろうことを思って小侍従を衛門督は自邸へ迎えて、熱心に話すのはまたそのことについてであった。
「昔から命にもかかわるほどの恋をしていて、しかも都合のよいあなたという手蔓《てづる》を持っていて、宮様の御様子も聞くことができ、私の煩悶《はんもん》していることも相当にお伝えしてもらっているはずなのだが、少しも見るに足る効果がないから残念でならない。あなたが恨めしくなるよ。法皇様さえも、宮様が幾人もの妻の中の一人におなりになって、第一の愛妻はほかの方であるというわけで、一人お寝《やす》みになる夜が多く、つれづれに暮らしておいでになるのをお聞きになって、御後悔をあそばしたふうで、結婚をさせるのであったら普通人の忠実な良人《おっと》を宮のために選ぶべきだったとお言いになり、女二《にょに》の宮《みや》はかえって幸福で将来が頼もしく見えるではないかと仰せられたということを私は聞いて、お気の毒にも、残念にも思って煩悶しないではいられないではないか。私の宮さんも御|姉妹《きょうだい》ではあるが、それはそれだけの方としておくのだよ」
 と衛門督《えもんのかみ》が歎息《たんそく》をしてみせると、小侍従は、
「まあもったいない。それはそれとしてお置きになって、また何をどうしようというのでしょう」
 ととがめた。衛門督は微笑を見せて、
「まあ世の中のことは皆そうしたもので、表も裏もあるものなのだよ。私が三の宮さんの熱心な求婚者であったことは、法皇様も陛下もよく御承知で、陛下はその時代に十分見込みはありそうだよ、とも仰せられたものなのだが、もう少しの御好意が不足していたわけだと私は思っている」
 などと言う。
「それはだめですよ。むずかしいことですよ。運命もありますし、六条院様が求婚者になって現われておいでになっては、どの競争者だって勝ち味はないと思いますけれど、あなただけはたいへんな御自信があったのですね。近ごろになりましてこそ御官服の色が濃くおなりになったようでございますがね」
 こんなふうにまくし立てる小侍従の攻撃にはかなわないことを衛門督は思った。
「もう昔のことは言わないよ。ただね、このごろのようなまたとない好機会にせめてお居間の近くへまで行って、私の苦しんでいる心を少しだけお話しさせてくれることを計らってくれないか。もったいない欲念《よくねん》などは見ていてごらん、もういっさい起こさないことにあきらめているのだから、いいだろう」
「それ以上のもったいない欲心がありますかしら。恐ろしい望みをお起こしになったものですね、私は出てまいらなければよかった」
 強硬に小侍従は拒む。
「ひどいことを言うものではないよ。たいそうらしく何を言うのだ。后といっても恋愛問題をかつてお起こしになった人もないわけではないよ。まして宮中のことではなしさ、ほかからは結構なお身の上に見られておいでになっても、口惜《くちお》しいこともあれでは多かろうじゃないか。法皇様からはどのお子様よりも大事がられて御成人なすって、今は同じだけの御身分でない方と同等の一人の夫人で、しかも最愛の方としてはお扱われにならないというくわしいことを私は知っているのだよ。人は無常の世界にいるのだから、君が宮の御幸福をこうして守ろうとしていることが皆むだなことになるかもしれないからね。私に冷酷なことを言っておかないほうがいいよ」
「人ほど大事がられない奥様だとお言いになって、それをあなたの力でよくしていただけるというのですか。六条院様と宮様は普通の夫婦というのでもありませんよ。保護者もなく一人でおいでになりますよりはという思召《おぼしめ》しで親代わりにお頼みになったのですもの。院がお引き受けになりましたのもその気持ちでなすったことですもの、つまらないことを言って、結局は宮様を悪くあなたはおっしゃるのですね」
 ついには腹をたててしまった小侍従の機嫌《きげん》を衛門督《えもんのかみ》はとっていた。
「ほんとうのことを言えば、あのまれな美貌《びぼう》の六条院様を良人《おっと》にお持ちになる宮様に、お目にかかって自身が好意を持たれようとは考えても何もいないのだよ。ただ一言を物越しに私がお話しするだけのことで、宮様の尊厳をそこねることはないじゃないか。神や仏にでも思っていることを言って咎《とが》や罰を受けはしないじゃないか」
 こう言って衛門督は絶対に不浄なことは行なわないという誓いまでも立てて、ひそかに御訪問をするだけの手引きを頼むのを、初めのうちは強硬にあるまじいことであると小侍従は突きはねていたが、もともとあさはかな若い女房であるから、こうまでも思い込むものかと、熱心な頼みに動かされて、
「もしそんなことによいような隙《すき》が見つかりましたら御案内いたしましょう。院がおいでにならぬ晩はお几帳《きちょう》のまわりに女房がたくさんいます。お帳台には必ずだれかが一人お付きしているのですから、どんな時にそうしたよいおりがあるものでしょうかね」
 と困ったように言いながら小侍従は帰って行った。
 どうだろう、どうだろうと毎日のように衛門督から責めて来られる小侍従は困りながらしまいにある隙《すき》のある日を見つけて衛門督へ知らせてやった。督は喜びながら目だたぬふうを作って小侍従を訪《たず》ねて行った。衛門督自身もこの行動の正しくないことは知っているのであるが、物越しの御様子に触れては物思いがいっそうつのるはずの明日までは考えずに、ただほのかに宮のお召し物の褄先《つまさき》の重なりを見るにすぎなかったかつての春の夕べばかりを幻に見る心を慰めるためには、接近して行って自身の胸中をお伝えして、それからは一行の文《ふみ》のお返事を得ることにもなればというほどの考えで、宮が憐《あわれ》んでくださるかもしれぬというはかない希望をいだいている衛門督でしかなかった。これは四月十幾日のことである。明日は賀茂《かも》の斎院の御禊《みそぎ》のある日で、御|姉妹《きょうだい》の斎院のために儀装車に乗せてお出しになる十二人の女房があって、その選にあたった若い女房とか、童女とかが、縫い物をしたり、化粧をしたりしている一方では、自身らどうしで明日の見物に出ようとする者もあって、仕度《したく》に大騒ぎをしていて、宮のお居間のほうにいる女房の少ない時で、おそばにいるはずの按察使《あぜち》の君も時々通って来る源中将が無理に部屋のほうへ呼び寄せたので、この小侍従だけがお付きしているのであった。よいおりであると思って、静かに小侍従はお帳台の中の東の端へ衛門督の席を作ってやった。これは乱暴な計らいである。宮は何心もなく寝ておいでになったのであるが、男が近づいて来た気配《けはい》をお感じになって、院がおいでになったのかとお思いになると、その男はかしこまった様子を見せて、帳台の床の上から宮を下へ抱きおろそうとしたから、夢の中でものに襲われているのかとお思いになって、しいてその者を見ようとあそばすと、それは男であるが院とは違った男であった。これまで聞いたこともおありにならぬような話を、その男はくどくどと語った。宮は気味悪くお思いになって、女房をお呼びになったが、お居間にはだれもいなかったからお声を聞きつけて寄って来る者もない。宮はお慄《ふる》い出しになって、水のような冷たい汗もお身体《からだ》に流しておいでになる。失心したようなこの姿が非常に御|可憐《かれん》であった。
「私はつまらぬ者ですが、それほどお憎まれするのが至当だとは思われません。昔からもったいない恋を私はいだいておりましたが、結局そのままにしておけば闇《やみ》の中で始末もできたのですが、あなた様をお望み申すことを発言いたしましたために、院のお耳にはいり、その際はもってのほかのこととも院は仰せられませんでした。それも私の地位の低さにあなた様を他へお渡しする結果になりました時、私の心に受けました打撃はどんなに大きかったでしょう。もうただ今になってはかいのないことを知っておりまして、こうした行動に出ますことは慎んでいたのですが、どれほどこの失恋の悲しみは私の心に深く食い入っていたのか、年月がたてばたつほど口惜《くちお》しく恨めしい思いがつのっていくばかりで、恐ろしいことも考えるようになりました。またあなた様を思う心もそれとともに深くなるばかりでございました。私はもう感情を抑制することができなくなりまして、こんな恥ずかしい姿であるまじい所へもまいりましたが、一方では非常に思いやりのないことを自責しているのですから、これ以上の無礼はいたしません」
 こんな言葉をお聞きになることによって、宮は衛門督《えもんのかみ》であることをお悟りになった。非常に不愉快にお感じにもなったし、怖《おそ》ろしくもまた思召《おぼしめ》されもして少しのお返辞もあそばさない。
「あなた様がこうした冷ややかなお扱いをなさいますのはごもっともですが、しかしこんなことは世間に例のないことではないのでございますよ。あまりに御同情の欠けたふうをお見せになれば、私は情けなさに取り乱してどんなことをするかもしれません。かわいそうだとだけ言ってください。そのお言葉を聞いて私は立ち去ります」
 とも、手を変え品を変え宮のお心を動かそうとして説く衛門督であった。想像しただけでは非常な尊厳さが御身を包んでいて、目前で恋の言葉などは申し上げられないもののように思われ、熱情の一端だけをお知らせし、その他の無礼を犯すことなどは思いも寄らぬことにしていた督であったにかかわらず、それほど高貴な女性とも思われない、たぐいもない柔らかさと可憐《かれん》な美しさがすべてであるような方を目に見てからは、衛門督の欲望はおさえられぬものになり、どこへでも宮を盗み出して行って夫婦になり、自分もそれとともに世間を捨てよう、世間から捨てられてもよいと思うようになった。
 少し眠ったかと思うと衛門督は夢に自分の愛している猫《ねこ》の鳴いている声を聞いた。それは宮へお返ししようと思ってつれて来ていたのであったことを思い出して、よけいなことをしたものだと思った時に目がさめた。この時にはじめて衛門督は自身の行為を悟ったのである。が宮はあさましい過失をして罪に堕《お》ちたことで悲しみにおぼれておいでになるのを見て、
「こうなりましたことによりましても、前生の縁がどんなに深かったかを悟ってくださいませ。私の犯した罪ですが、私自身も知らぬ力がさせたのです」
 不意に猫が端を引き上げた御簾《みす》の中に宮のおいでになった春の夕べのことも衛門督《えもんのかみ》は言い出した。そんなことがこの悲しい罪に堕《お》ちる因をなしたのかと思召《おぼしめ》すと、宮は御自身の運命を悲しくばかり思召されるのであった。もう六条院にはお目にかかれないことをしてしまった自分であるとお思いになることは、非常に悲しく心細くて、子供ら
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