っておいでになっては私の立場も苦しくなりますからね、女御さんがもう一段御出世をなすったあとで、その時に私たちだけでお参りをいたしましょう」
と言って、尼君をとどめていたのであるが、老人はそれまで長命で生きておられる自信もなく心細がってそっと一行に加わって来たのである。運命の寵児《ちょうじ》であることがしかるべきことと思われる女王や女御よりも、明石の母と娘の前生の善果がこの日ほどあざやかに見えたこともなかった。
十月の二十日《はつか》のことであったから、中の忌垣《いがき》に這《は》う葛《くず》の葉も色づく時で、松原の下の雑木の紅葉《もみじ》が美しくて波の音だけ秋であるともいわれない浜のながめであった。本格的な支那《しな》楽|高麗《こうらい》楽よりも東《あずま》遊びの音楽のほうがこんな時にはぴったりと、人の心にも波の音にも合っているようであった。高い梢《こずえ》で鳴る松風の下で吹く笛の音もほかの場所で聞く音とは変わって身にしみ、松風が琴に合わせる拍子は鼓を打ってするよりも柔らかでそして寂しくおもしろかった。伶人《れいじん》の着けた小忌衣《おみごろも》竹の模様と松の緑が混じり、挿頭《かざし》の造花は秋の草花といっしょになったように見えるが、「求《もと》の子《めこ》」の曲が終わりに近づいた時に、若い高官たちが正装の袍《ほう》の肩を脱いで舞の場へ加わった。黒の上着の下から臙脂《えんじ》、紅紫の下襲《したがさね》の袖《そで》をにわかに出し、それからまた下の袙《あこめ》の赤い袂《たもと》の見えるそれらの人の姿を通り雨が少しぬらした時には、松原であることも忘れて紅葉のいろいろが散りかかるように思われた。その派手《はで》な姿に白くほおけた荻《おぎ》の穂を挿《さ》してほんの舞の一節《ひとふし》だけを見せてはいったのがきわめておもしろかった。
院は昔を追憶しておいでになった。中途で不幸な日のあったことも目の前のことのように思われて、それについては語る人もお持ちにならぬ院は、関白を退いた太政大臣を恋しく思召《おぼしめ》された。車へお帰りになった院は第二の車へ、
[#ここから2字下げ]
たれかまた心を知りて住吉《すみよし》の神代を経たる松にこと問ふ
[#ここで字下げ終わり]
という歌を懐中紙《ふところがみ》に書いたのを持たせておやりになった。尼君は心を打たれたように萎《しお》れて
前へ
次へ
全64ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
紫式部 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング