住吉《すみよし》の神をはじめとして仏様への願果たしをなさるようにと申しておきます。私の大願がかなった今では、はるかに西方の十万億の道を隔てた世界の、九階級の中の上の仏の座が得られることも信じられます。今から蓮華《れんげ》をお持ちになる迎えの仏にお逢《あ》いする夕べまでを私は水草の清い山にはいってお勤めをしています。

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光いでん暁近くなりにけり今ぞ見しよの夢語りする
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 そして日づけがある。またあとへ、
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私の命の終わる月日もお知りになる必要はありません。人が古い習慣で親のために着る喪服などもあなたはお着けにならないでお置きなさい。人間の私の子ではなく、別な生命《いのち》を受けているものとお思いになって、私のためにはただ人の功徳《くどく》になることをなさればよろしい。この世の愉楽をわが物としておいでになる時にも後世《ごせ》のことを忘れぬようになさい。私の志す世界へ行っておれば必ずまた逢うことができるのです。娑婆《しゃば》のかなたの岸も再会の得られる期の現われてくることを思っておいでなさい。
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 こう書いて終わってあった。また入道が住吉の社《やしろ》へ奉った多くの願文を集めて入れた沈《じん》の木の箱の封じものも添えてあった。尼君への手紙は細かなことは言わずに、ただ、
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この月の十四日に今までの家を離れて深山《みやま》へはいります。つまらぬわが身を熊《くま》狼《おおかみ》に施します。あなたはなお生きていて幸いの花の美しく咲く日におあいなさい。光明の中の世界でまた逢いましょう。
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 と書かれただけのものであった。読んだあとで尼君は使いの僧に入道のことを聞いた。
「お手紙をお書きになりましてから三日めに庵《いおり》を結んでおかれました奥山へお移りになったのでございます。私どもはお見送りに山の麓《ふもと》へまで参ったのですが、そこから皆をお帰しになりまして、あちらへは僧を一人と少年を一人だけお供にしてお行きになりました。御出家をなさいました時を悲しみの終わりかと思いましたが、悲しいことはそれで済まなかったのでございます。以前から仏勤めをなさいますひまひまに、お身体《からだ》を楽になさいましてはお弾《ひ》きになりました琴《きん》と琵琶《びわ》を持ってよこさせになりまして、仏前でお暇乞《いとまご》いにお弾きになりましたあとで、楽器を御堂《みどう》へ寄進されました。そのほかのいろいろな物も御堂へ御寄付なさいまして、余りの分をお弟子《でし》の六十幾人、それは親しくお仕えした人数ですが、それへお分けになり、なお残りました分を京の御財産へおつけになりました。いっさいをこんなふうに清算なさいまして深山《みやま》の雲霞《くもかすみ》の中に紛れておはいりになりましたあとのわれわれ弟子どもはどんなに悲しんでいるかしれません」
 と播磨《はりま》の僧は言った。これも少年侍として京からついて行った者で、今は老法師で主に取り残された悲哀を顔に見せている。仏の御弟子で堅い信仰を持ちながらこの人さえ主を失った歎《なげ》きから脱しうることができないのであるから、まして尼君の歎きは並み並みのことでなかった。
 明石《あかし》夫人はたいてい南の町のほうへばかり行っていたが、明石の使いが入道の手紙をもたらしたことを尼君が報らせて来たため、そっと北の町へ帰って来た。この人は自重していて少しのことによって軽々しく往来《ゆきき》することはしないのであるが、悲しいたよりがあったというので忍びやかに出て来たのである。見ると尼君は非常に悲しいふうをしてすわっていた。燈《ともしび》を近くへ寄せさせて夫人は手紙を読んでみると、自身からもとどめがたい涙が流れた。他人にとっては何でもないことも子としては忘れがたい思い出になる昔のことが多くて、常に恋しくばかり思われた父は、こうして自分たちから永久に去ったのかと思うと、どうしようもない深い悲しみに落ちるばかりであった。この夢の話によって、自分に不相応な未来を期待して、人並みの幸福を受けさせずに苦しめる父であるようにある時代の自分が恨んだのも、一つの夢を頼みにした父であったからであると、はじめて理解のできた気もした。少したって尼君は、
「あなたがあったために輝かしい光栄にも私は浴していますが、またあなたのためにどれほどの苦労を心でしたことか。たいしたことのない家の子ではあっても、生まれた京を捨てて田舎《いなか》へ行ったころも不運な私だと思われましたがね。あとになって生きながら別れなければならぬとは予想せずに、同じ蓮華《れんげ》の上へ生まれて行く時まで変わらぬ夫婦でいようとも互いに思って、愛の生活には満足して年月
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