の幸福でないと私が思いまして、はじめて女王様にあなたをお譲り申し上げました時には、これほどまでの愛をあなたにお持ちになることは想像できませんで、それ以後もただ世間並みのよいといわれる継母《ままはは》ぐらいのことと思いましたが、あの方の御愛情はそんなものではありませんでした。あの方にお任せいたしますほど安心なことはないとよく私はわかったのでございます」
などと明石は淑景舎《しげいしゃ》に言った。姫君は涙ぐんで聞いていた。実母に対しても打ち解けたふうができず、おとなしくものの多く言われない姫君なのである。入道の手紙は若い心に無気味なこわい気のされるようなことが、古檀紙の分厚い黄色がかった、それでも薫物《たきもの》の香の染《し》んだのへ五、六枚に書かれてあるのを、姫君は身にしむふうで読んでいて額髪が涙にぬれていく様子が艶《えん》であった。
院は女三《にょさん》の宮《みや》のお座敷のほうにおいでになったのであるが、中の戸をあけてにわかにこちらへお見えになったのを知って、明石夫人は急なことで姫君の前に出された文書類を隠すことができず、几帳《きちょう》を少し前のほうへ引き寄せ、自身もその蔭《かげ》へ姿を隠してしまった。
「若宮が私の足音でお目ざめになりませんでしたか。しばらくでも見ずにいては恋しいものだから」
と院がお言いになっても姫君は黙っているのを見て、明石が、
「対へおつれになったのでございます」
と言った。
「けしからんね、若宮をわが物顔にして懐中《ふところ》からお放ししないのだから。始終自身の着物をぬらして脱ぎかえているのですよ。軽々しく宮様をあちらへおやりするようなことはよろしくない。こちらへ拝見に来ればいいではないか」
「思いやりのないことを仰せになります。内親王様であってもあの女王様に御養育おされになるのがふさわしいことと存じられますのに、まして男宮様は、そんなに尊貴でおありあそばしても、あちこちおつれ申すほどのことが何でございましょう。御冗談《ごじょうだん》にでも女王様のことをそんなふうにおっしゃってはよろしくございません」
明石夫人はこう抗弁した。院はお笑いになって、
「ではもうあなたがたにお任せきりにすべきだね。このごろはだれからも私は冷淡に扱われる。今のようなたしなめを言ったりする人もある。そうじゃありませんか、こんなに顔を隠していて、私を悪くばかり」
と、お言いになって、几帳を横へお引きになると、明石は清い顔をして中の柱に品よくよりかかっているのであった。先刻《さっき》の箱もあわてて隠すのが恥ずかしく思われてそのままにしてあった。
「何の箱ですか。恋する男が長い歌を詠《よ》んで封じて来たもののような気がする」
院がこうお言いになると、
「いやな御想像でございますね。御自身がお若返りになりましたので、私どもさえまで承ったこともないような御冗談をこのごろは伺います」
と明石は言って微笑を見せていたが、悲しそうな様子は瞭然《りょうぜん》とわかるのであったから、不思議にお思いになるふうのあるのに困って、明石が言った。
「あの明石の岩窟《いわや》から、そっとよこしました経巻とか、まだお酬《むく》いのできておりません願文の残りとかなのでございますが、姫君にも昔のことをお話しする時があれば、これもお目にかけたらどうかと申してもまいっているのでございますが、ただ今はまだそうしたものを御覧なさいます時期でもないのでございますから、お手をおつけになりません」
お聞きになって、娘と母に悲しい表情の見えるのももっともであるとお思いになった。
「あれ以後ますます深い信仰の道を歩んでおいでになることであろう。長命をされて長い間のお勤めが仏にできたのだから結構だね。世間で有名になっている高僧という者もよく観察してみると、俗臭のない者は少なくて、賢い点には尊敬の念も払われるが、私には飽き足らず思われる所がある、あの人だけはりっぱな僧だと私にも思われる。僧がらずにいながら、心持ちはこの世界以上の世界と交渉しているふうに見えた人ですよ。今ではまして係累もなくなって、超然としておられるだろうあの人が想像される。手軽な身分であればそっと行って逢《あ》いたい人だ」
院はこうお言いになった。
「ただ今はもうあの家も捨てまして、鳥の声もせぬ山へはいったそうでございます」
「ではその際に書き残されたものなのだね。あなたからもたよりはしていますか。尼さんはどんなに悲しんでおいでになるだろう。親子の仲とはまた違った深い愛情が夫婦の仲にはあるものだからね」
院も涙ぐんでおいでになった。
「あれからのちいろいろな経験をし、いろいろな種類の人にも逢《あ》ったが、昔のあの人ほど心を惹《ひ》く人物はなくて、私にも恋しく思われる人なのだから、そんなことが
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