た。
 その秋三十九歳で源氏は準太上《じゅんだじょう》天皇の位をお得になった。官から支給されておいでになる物が多くなり、年官年爵の特権数がおふえになったのである。それでなくても自由でないことは何一つないのでおありになったが、古例どおりに院司などが、それぞれ任命されて、しかもどの場合の院付きの役人よりも有為な、勢いのある人々が選ばれたのであった。こんなことになって心安く御所へ行くことのおできにならないことになったのを六条院は物足らずお思いになった。この御処置をあそばしてもまだ帝は不満足に思召《おぼしめ》され、世間をはばかるために位をお譲りになることのできぬことを朝夕お歎《なげ》きになった。
 内大臣が太政大臣になって、宰相中将は中納言になった。任官の礼廻りをするために出かける中納言はいっそう光彩の添うた気がして、身のとりなし、容貌《ようぼう》の美に欠けた点のないのを、舅《しゅうと》の大臣は見て、後宮の競争に負けた形になっているような宮仕えをさせるよりも、こうした婿をとるほうがよいことであるという気になった。雲井《くもい》の雁《かり》の乳母《めのと》の大輔《たゆう》が、
「姫君は六位の男と結婚をなさる御運だった」
 とつぶやいた夜のことが中納言にはよく思い出されるのであったから、美しい白菊が紫を帯びて来た枝を大輔に渡して、

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「あさみどりわか葉の菊をつゆにても濃き紫の色とかけきや
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 みじめな立場にいて聞いたあなたの言葉は忘れないよ」
 と朗らかに微笑して言った。乳母《めのと》は恥ずかしくも思ったが、気の毒なことだったとも思いおかわいらしい恨みであるとも思った。

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「二葉より名だたる園の菊なればあさき色わく露もなかりき
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 どんなに憎らしく思召《おぼしめ》したでしょう」
 と物|馴《な》れたふうに言って心苦しがった。納言になったために来客も多くなり、この住居《すまい》が不便になって、源中納言はお亡《な》くなりになった祖母の宮の三条殿へ引き移った。少し荒れていたのをよく修理して、宮の住んでおいでになった御殿の装飾を新しくして夫婦のいる所にした。二人にとっては昔を取り返しえた気のする家である。庭の木の小さかったのが大きくなって広い蔭《かげ》を作るようになっていたり、ひとむら薄《すすき》が思うぞんぶんに拡《ひろ》がってしまったりしたのを整理させ、流れの水草を掻《か》き取らせもして快いながめもできるようになった。
 美しい夕方の庭の景色《けしき》を二人でながめながら、冷たい手に引き分けられてしまった少年の日の恋の思い出を語っていたが、恋しく思われることもまた多かった。当時の女房たちは自分をどう思って見たであろうと雲井の雁は恥ずかしく思っていた。祖母の宮に付いていた女房で、今までまだそれぞれの部屋《へや》に住んでいた女房などが出て来て、新夫婦がここへ住むことになったのを喜んでいた。
 源中納言、

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なれこそは岩もるあるじ見し人の行くへは知るや宿の真清水《ましみづ》
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 夫人、

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なき人は影だに見えずつれなくて心をやれるいさらゐの水
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 などと言い合っている時に、太政大臣は宮中から出た帰途にこの家の前を通って、紅葉《もみじ》の色に促されて立ち寄った。宮がお住まいになった当時にも変わらず、幾つの棟《むね》に分かれた建物を上手《じょうず》にはなやかに住みなしているのを見て大臣の心はしんみりと濡《ぬ》れていった。中納言は美しい顔を少し赤らめて舅《しゅうと》の前にいた。美しい若夫婦ではあるが、女のほうはこれほどの容貌《ようぼう》がほかにないわけはないと見える程度の美人であった。男はあくまでもきれいであった。老いた女房などは大臣の来訪に得意な気持ちになって、古い古い時代の話などをし出すのであった。そこに出たままになっていた二人の歌の書いた紙を取って、大臣は読んだが、しおれたふうになった。
「ここの水に聞きたいことが私にもあるが、今日は縁起を祝ってそれを言わないことにしよう」
 と言って、大臣は、

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そのかみの老い木はうべも朽ちにけり植ゑし小松も苔《こけ》生《お》ひにけり
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 この歌を告げた。中納言の乳母《めのと》の宰相の君は、あの当時の大臣の処置に憤慨して、今も恨めしがっているのであったから、得意な気持ちで大臣に言った。

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いづれをも蔭《かげ》とぞ頼む二葉より根ざしかはせる松の末々
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 この感想がどの女房の歌にも出てくるのを中納言は快く思った。雲井の雁はむや
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