終わり]

 この歌を書きかけては泣き泣いては書きしていた。夫人は、
「そんなことを」
 と言いながら、

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馴れきとは思ひ出《い》づとも何により立ちとまるべき真木の柱ぞ
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 と自身も歌ったのであった。女房たちの心もいろいろなことが悲しくした。心のない庭の草や木と別れることも、あとに思い出して悲しいことであろうと心が動いた。木工《もく》の君は初めからこの家の女房であとへ残る人であった。中将の君は夫人といっしょに行くのである。

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「浅けれど石間《いはま》の水はすみはてて宿|守《も》る君やかげはなるべき
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 思いも寄らなかったことですね、こうしてあなたとお別れするようになるなどと」
 と中将の君が言うと、木工《もく》は、

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「ともかくも石間《いはま》の水の結ぼほれかげとむべくも思ほえぬ世を
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 何が何だかどうなるのだか」
 と言って泣いていた。
 車が引き出されて人々は邸《やしき》の木立ちのなお見える間は、自分らはまたもここを見る日はないであろうと悲しまれて、隠れてしまうまで顧みられた。住んでいる主人《あるじ》のために家と別れるのが惜しいのではなくて、家そのものに愛着のある心がそうさせるのである。
 大将夫人をお迎えになって、宮は非常にお悲しみになった。母の夫人は泣き騒いだ。
「太政大臣のことをよい親戚《しんせき》を持ったようにあなたは喜んでいらっしゃいますが、私には前生にどんな仇敵《かたき》だった人かと思われます。女御《にょご》などにも何かの場合に好意のない態度を露骨にお見せになりましたが、そのころは須磨《すま》時代の恨みが忘られないのだろうとあなたがお言いになり、世間でもそう批評されたのでも私には腑《ふ》に落ちなかったのです。それだのにまた今になって、養女を取ったりなどして、自分が御|寵愛《ちょうあい》なすって古くなすった代償にまじめな堅い男を取り寄せて婿にするなどということをなさる。これが恨めしくなくて何ですか」
 こう言い続けるのである。
「聞き苦しい。世間から何一つ批難をお受けにならない大臣を、出まかせな雑言《ぞうごん》で悪く言うのはおよしなさい。聡明《そうめい》な人はこちらの罪を目前でどうしようとはしないで、自然の罰にあうがいいと考えていられたのだろう。そう思われる私自身が不幸なのだ。冷静にしていられるようで、そしてあの時代の報いとして、ある時はよくしたり、ある時はきびしくしたりしようと考えていられるのだろう。私一人は妻の親だとお思いになって、いつかも驚くべき派手《はで》な賀宴を私のためにしてくだすった。まあそれだけを生きがいのあったこととして、そのほかのことはあきらめなければならないのだろう」
 と宮がお言いになるのを聞いて、夫人はいよいよ猛《たけ》り立つばかりで、源氏夫婦への詛《のろ》いの言葉を吐き散らした。この夫人だけは善良なところのない人であった。
 大将は夫人が宮家へ帰ったことを聞いてほんとうらしくもなく、若夫婦の中ででもあるような争議を起こすものである、自分の妻はそうした愛情を無視するような態度のとれる性質ではないのであるが、宮が軽率な計らいをされるのであると思って、子供もあることであったし、夫人のために世間体も考慮してやらねばならないと煩悶《はんもん》してのちに、こうした奇怪な出来事が家のほうであったと話して、
「かえってさっぱりとした気もしないではありませんが、しかしそのままでおとなしく家の一隅《いちぐう》に暮らして行けるはずの善良さを私は妻に認めていたのですよ。にわかに無理解な宮が迎えをおよこしになったのであろうと想像されます。世間へ聞こえても私を誤解させることだから、とにかく一応の交渉をしてみます」
 とも言って出かけるのであった。よいできの袍《ほう》を着て、柳の色の下襲《したがさね》を用い、青鈍《あおにび》色の支那《しな》の錦《にしき》の指貫《さしぬき》を穿《は》いて整えた姿は重々しい大官らしかった。決して不似合いな姫君の良人《おっと》でないと女房たちは見ているのであったが、尚侍《ないしのかみ》は家庭の悲劇の伝えられたことでも、自分の立場がつらくなって、大将の好意がうるさく思われて、あとを見送ろうともしなかった。
 宮へ抗議をしに大将は出かけようとしているのであったが、先に邸のほうへ寄って見た。木工《もく》の君などが出て来て、夫人の去った日の光景をいろいろと語った。姫君のことを聞いた時に、どこまでも自制していた大将も堪えられないようにほろほろと涙をこぼすのが哀れであった。
「どうしたことだろう。常人でない病気のある人を、長い間どんなにいたわって私が来た
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