くれば袖《そで》ぞ露けかりける」というように、少しお泣きになる様子が非常に可憐《かれん》で、みじろぎの音も類のない柔らかさに聞こえた。艶《えん》な人であるに相違ない、今日までまだよく顔を見ることのできないことが残念であると、ふと源氏の胸が騒いだ。困った癖である。
「私は過去の青年時代に、みずから求めて物思いの多い日を送りました。恋愛するのは苦しいものなのですよ。悪い結果を見ることもたくさんありましたが、とうとう終《しま》いまで自分の誠意がわかってもらえなかった二つのことがあるのですが、その一つはあなたのお母様のことです。お恨ませしたままお別れしてしまって、このことで未来までの煩いになることを私はしてしまったかと悲しんでいましたが、こうしてあなたにお尽くしすることのできることで私はみずから慰んでいるもののなおそれでもおかくれになったあなたのお母様のことを考えますと、私の心はいつも暗くなります」
もう一つのほうの話はしなかった。
「私の何もかもが途中で挫折《ざせつ》してしまったころ、心苦しくてなりませんでしたことがどうやら少しずつよくなっていくようです。今東の院に住んでおります妻は、寄るべの少ない点で絶えず私の気がかりになったものですが、それも安心のできるようになりました。善良な女で、私と双方でよく理解し合っていますから朗らかなものです。私がまた世の中へ帰って朝政に与《あずか》るような喜びは私にたいしたこととは思われないで、そうした恋愛問題のほうがたいせつに思われる私なのですから、どんな抑制を心に加えてあなたの御後見だけに満足していることか、それをご存じになっていますか、御同情でもしていただかなければかいがありません」
と源氏は言った。面倒《めんどう》な話になって、宮は何ともお返辞をあそばさないのを見て、
「そうですね、そんなことを言って私が悪い」
と話をほかへ源氏は移した。
「今の私の望みは閑散な身になって風流|三昧《ざんまい》に暮らしうることと、のちの世の勤めも十分にすることのほかはありませんが、この世の思い出になることを一つでも残すことのできないのはさすがに残念に思われます。ただ二人の子供がございますが、老い先ははるかで待ち遠しいものです。失礼ですがあなたの手でこの家の名誉をお上げくだすって、私の亡《な》くなりましたのちも私の子供らを護《まも》っておやりください」
などと言った。宮のお返事はおおようで、しかも一言をたいした努力でお言いになるほどのものであるが、源氏の心はまったくそれに惹《ひ》きつけられてしまって、日の暮れるまでとどまっていた。
「人聞きのよい人生の望みなどはたいして持ちませんが、四季時々の美しい自然を生かせるようなことで、私は満足を得たいと思っています。春の花の咲く林、秋の野のながめを昔からいろいろに優劣が論ぜられていますが、道理だと思って、どちらかに加担のできるほどのことはまだだれにも言われておりません。支那《しな》では春の花の錦が最上のものに言われておりますし、日本の歌では秋の哀れが大事に取り扱われています。どちらもその時その時に感情が変わっていって、どれが最もよいとは私らに決められないのです。狭い邸《やしき》の中ででも、あるいは春の花の木をもっぱら集めて植えたり、秋草の花を多く作らせて、野に鳴く虫を放しておいたりする庭をこしらえてあなたがたにお見せしたく思いますが、あなたはどちらがお好きですか、春と秋と」
源氏にこうお言われになった宮は、返辞のしにくいことであるとはお思いになったが、何も言わないことはよろしくないとお考えになって、
「私などはまして何もわかりはいたしませんで、いつも皆よろしいように思われますけれど、そのうちでも怪しいと申します夕べ(いつとても恋しからずはあらねども秋の夕べは怪しかりけり)は私のためにも亡《な》くなりました母の思い出される時になっておりまして、特別な気がいたします」
お言葉|尻《じり》のしどけなくなってしまう様子などの可憐《かれん》さに、源氏は思わず規《のり》を越した言葉を口に出した。
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「君もさは哀れをかはせ人知れずわが身にしむる秋の夕風
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忍びきれないおりおりがあるのです」
宮のお返辞のあるわけもない。腑《ふ》に落ちないとお思いになるふうである。いったんおさえたものが外へあふれ出たあとは、その勢いで恋も恨みも源氏の口をついて出てきた。それ以上にも事を進ませる可能性はあったが、宮があまりにもあきれてお思いになる様子の見えるのも道理に思われたし、自身の心もけしからぬことであると思い返されもして源氏はただ歎息《たんそく》をしていた。艶《えん》な姿ももう宮のお目にはうとましいものにばかり見えた。柔らかにみじろぎを
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