人も哀れに思いやられた。このごろの源氏の心は明石の浦へ傾き尽くしていた。手紙にも姫君を粗略にせぬようにと繰り返し繰り返し誡《いまし》めてあった。

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いつしかも袖《そで》うちかけんをとめ子が世をへて撫《な》でん岩のおひさき
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 こんな歌も送ったのである。摂津の国境《くにざかい》までは船で、それからは馬に乗って乳母は明石へ着いた。入道は非常に喜んでこの一行を受け取った。感激して京のほうを拝んだほどである。そしていよいよ姫君は尊いものに思われた。おそろしいほどたいせつなものに思われた。乳母が小さい姫君の美しい顔を見て、聡明《そうめい》な源氏が将来を思って大事にするのであると言ったことはもっともなことであると思った。来る途中で心細いように、恐ろしいように思った旅の苦痛などもこれによって忘れてしまうことができた。非常にかわいく思って乳母は幼い姫君を扱った。若い母は幾月かの連続した物思いのために衰弱したからだで出産をして、なお命が続くものとも思っていなかったが、この時に見せられた源氏の至誠にはおのずから慰められて、力もついていくようであった。送って来た侍に対しても入道は心をこめた歓待をした。あまり丁寧な待遇に侍は困って、
「こちらの御様子を聞こうとお待ちになっていらっしゃるでしょうから早く帰京いたしませんと」
 とも言うのであった。明石の君は感想を少し書いて、

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一人して撫《な》づるは袖《そで》のほどなきに覆《おほ》ふばかりの蔭《かげ》をしぞ待つ
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 と歌も添えて来た。怪しいほど源氏は明石の子が心にかかって、見たくてならぬ気がした。夫人には明石の話をあまりしないのであるが、ほかから聞こえて来て不快にさせてはと思って、源氏は明石の君の出産の話をした。
「人生は意地の悪いものですね。そうありたいと思うあなたにはできそうでなくて、そんな所に子が生まれるなどとは。しかも女の子ができたのだからね、悲観してしまう。うっちゃって置いてもいいのだけれど、そうもできないことでね、親であって見ればね。京へ呼び寄せてあなたに見せてあげましょう。憎んではいけませんよ」
「いつも私がそんな女であるとしてあなたに言われるかと思うと私自身もいやになります。けれど女が恨みやすい性質になるのはこんなことばかりがあるからなのでしょう」
 と女王《にょおう》は怨《うら》んだ。
「そう、だれがそんな習慣をつけたのだろう。あなたは実際私の心持ちをわかろうとしてくれない。私の思っていないことを忖度《そんたく》して恨んでいるから私としては悲しくなる」
 と言っているうちに源氏は涙ぐんでしまった。どんなにこの人が恋しかったろうと別居時代のことを思って、おりおり書き合った手紙にどれほど悲しい言葉が盛られたものであろうと思い出していた源氏は、明石の女のことなどはそれに比べて命のある恋愛でもないと思われた。
「子供に私が大騒ぎして使いを出したりしているのも考えがあるからですよ。今から話せばまた悪くあなたが取るから」
 とその話を続けずに、
「すぐれた女のように思ったのは場所のせいだったと思われる。とにかく平凡でない珍しい存在だと思いましたよ」
 などと子の母について語った。別れの夕べに前の空を流れた塩焼きの煙のこと、女の言った言葉、ほんとうよりも控え目な女の容貌《ようぼう》の批評、名手らしい琴の弾《ひ》きようなどを忘られぬふうに源氏の語るのを聞いている女王は、その時代に自分は一人でどんなに寂しい思いをしていたことであろう、仮にもせよ良人《おっと》は心を人に分けていた時代にと思うと恨めしくて、明石の女のために歎息《たんそく》をしている良人は良人であるというように、横のほうを向いて、
「どんなに私は悲しかったろう」
 歎息しながら独言《ひとりごと》のようにこう言ってから、

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思ふどち靡《なび》く方にはあらずとも我《われ》ぞ煙に先立ちなまし
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「何ですって、情けないじゃありませんか、

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たれにより世をうみやまに行きめぐり絶えぬ涙に浮き沈む身ぞ
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 そうまで誤解されては私はもう死にたくなる。つまらぬことで人の感情を害したくないと思うのも、ただ一つの私の願いのあなたと永《なが》く幸福でいたいためじゃないのですか」
 源氏は十三絃の掻《か》き合わせをして、弾《ひ》けと女王に勧めるのであるが、名手だと思ったと源氏に言われている女がねたましいか手も触れようとしない。おおようで美しく柔らかい気持ちの女性であるが、さすがに嫉妬《しっと》はして、恨むことも腹を立てることもあるのが、いっそう複雑な美しさを添えて、この人をより引き立てて見せることだと源氏は思っていた。
 五月の五日が五十日《いか》の祝いにあたるであろうと源氏は人知れず数えていて、その式が思いやられ、その子が恋しくてならないのであった。紫の女王に生まれた子であったなら、どんなにはなやかにそれらの式を自分は行なってやったことであろうと残念である。あの田舎《いなか》で父のいぬ場所で生まれるとは憐《あわ》れな者であると思っていた。男の子であれば源氏もこうまでこの事実に苦しまなかったであろうが、后《きさき》の望みを持ってよい女の子にこの引け目をつけておくことが堪えられないように思われて、自分の運はこの一点で完全でないとさえ思った。五十日《いか》のために源氏は明石へ使いを出した。
「ぜひ当日着くようにして行け」
 と源氏に命ぜられてあった使いは五日に明石へ着いた。華奢《かしゃ》な祝品の数々のほかには実用品も多く添えて源氏は贈ったのである。

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海松や時ぞともなきかげにゐて何のあやめもいかにわくらん

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からだから魂が抜けてしまうほど恋しく思います。私はこの苦しみに堪えられないと思う。ぜひ京へ出て来ることにしてください。こちらであなたに不愉快な思いをさせることは断じてない。
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 という手紙であった。入道は例のように感激して泣いていた。源氏の出立の日の泣き顔とは違った泣き顔である。明石でも式の用意は派手《はで》にしてあった。見て報告をする使いが来なかったなら、それがどんなに晴れをしなかったことだろうと思われた。乳母《めのと》も明石の君の優しい気質に馴染《なじ》んで、よい友人を得た気になって、京のことは思わずに暮らしていた。入道の身分に近いほどの家の女《むすめ》もここに来て女房勤めをしているようなのが幾人かはあるが、それがどうかといえば京の宮仕えに磨《す》り尽くされたような年配の者が生活の苦から脱《のが》れるために田舎《いなか》下りをしたのが多いのに、この乳母はまだ娘らしくて、しかも思い上がった心を持っていて、自身の見た京を語り、宮廷を語り、縉紳《しんしん》の家の内部の派手な様子を語って聞かせることができた。源氏の大臣がどれほど社会から重んぜられているかということも、女心にしたいだけの誇張もして始終話した。乳母の話から、その人が別れたのちの今日までも好意を寄せて、また自分の生んだ子を愛してくれているのは幸福でなくて何であろうと明石の君はようやくこのごろになって思うようになった。乳母は源氏の手紙をいっしょに読んでいて、人間にはこんなに意外な幸運を持っている人もあるのである、みじめなのは自分だけであると悲しまれたが、乳母はどうしているかということも奥に書かれてあって、源氏が自分に関心を持っていることを知ることができたので満足した。返事は、

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数ならぬみ島がくれに鳴く鶴《たづ》を今日もいかにと訪《と》ふ人ぞなき

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いろいろに物思いをいたしながら、たまさかのおたよりを命にしておりますのもはかない私でございます。仰せのように子供の将来に光明を認めとうございます。
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 というので、信頼した心持ちが現われていた。何度も同じ手紙を見返しながら、
「かわいそうだ」
 と長く声を引いて独言《ひとりごと》を言っているのを、夫人は横目にながめて、「浦より遠《をち》に漕《こ》ぐ船の」(我をば他《よそ》に隔てつるかな)と低く言って、物思わしそうにしていた。
「そんなにあなたに悪く思われるようにまで私はこの女を愛しているのではない。それはただそれだけの恋ですよ。そこの風景が目に浮かんできたりする時々に、私は当時の気持ちになってね、つい歎息《たんそく》が口から出るのですよ。なんでも気にするのですね」
 などと、恨みを言いながら上包みに書かれた字だけを夫人に見せた。品のよい手跡で貴女《きじょ》も恥ずかしいほどなのを見て、夫人はこうだからであると思った。
 こんなふうに紫の女王《にょおう》の機嫌《きげん》を取ることにばかり追われて、花散里《はなちるさと》を訪《たず》ねる夜も源氏の作られないのは女のためにかわいそうなことである。このごろは公務も忙しい源氏であった。外出に従者も多く従えて出ねばならぬ身分の窮屈《きゅうくつ》さもある上に、花散里その人がきわだつ刺戟《しげき》も与えぬ人であることを知っている源氏は、今日逢わねばと心の湧《わ》き立つこともないのであった。
 五月雨《さみだれ》のころは源氏もつれづれを覚えたし、ちょうど公務も閑暇《ひま》であったので、思い立ってその人の所へ行った。訪ねては行かないでも源氏の君はこの一家の生活を保護することを怠っていなかったのである。それにたよっている人は恨むことがあっても、ただみずからの薄命を歎《なげ》く程度のものであったから源氏は気楽に見えた。何年かのうちに邸内《やしきうち》はいよいよ荒れて、すごいような広い住居《すまい》であった。姉の女御《にょご》の所で話をしてから、夜がふけたあとで西の妻戸をたたいた。朧《おぼ》ろな月のさし込む戸口から艶《えん》な姿で源氏ははいって来た。美しい源氏と月のさす所に出ていることは恥ずかしかったが、初めから花散里はそこに出ていたのでそのままいた。この態度が源氏の気持ちを楽にした。水鶏《くいな》が近くで鳴くのを聞いて、

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水鶏だに驚かさずばいかにして荒れたる宿に月を入れまし
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 なつかしい調子で言うともなくこう言う女が感じよく源氏に思われた。どの人にも自身を惹《ひ》く力のあるのを知って源氏は苦しかった。

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「おしなべてたたく水鶏に驚かばうはの空なる月もこそ入れ
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 私は安心していられない」
 とは言っていたが、それは言葉の戯れであって、源氏は貞淑な花散里を信じ切っている。何に動揺することもなく長く留守《るす》の間を静かに待っていてくれた人を、源氏はおろそかには思っていなかった。当分悲しくならないがために空はながめないで暮らすようにと、行く前に源氏が言った夜のことなどを思い出して言うのであった。
「なぜあの時に私は非常に悲しいことだと思ったのでしょう。私などはあなたに幸福の帰って来た今だってもやはり寂しいのでしたのに」
 と恨みともなしにおおように言っているのが可憐《かれん》であった。例のように源氏は言葉を尽くして女を慰めていた。平生どうしまってあったこの人の熱情かと思われるようである。こんな機会がまた作られたならば、大弐《だいに》の五節《ごせち》に逢いたいと源氏は願っていたが、五節の訪問も実現がむずかしいと見なければならない。女は源氏を忘れることができないで、物思いの多い日を送っていて、親が心配してかれこれと勧める結婚話には取り合わずに、人並みの女の幸福などはいらないと思っていた。源氏は東の院は本邸でなく、そんな人たちを集めて住ませようと建築をさせているのであったから、もし理想どおりにかしずき娘ができてくることがあったら、顧問格の女として才女の五節などは必要な人物であると源氏は思っていた。
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