みることができたりする年配の人であっても、こんなことは堪えられないに違いないのを、だれよりも睦《むつ》まじく暮らして、ある時は父にも母にもなって愛撫《あいぶ》された保護者で良人《おっと》だった人ににわかに引き離されて女王が源氏を恋しく思うのはもっともである。死んだ人であれば悲しい中にも、時間があきらめを教えるのであるが、これは遠い十万億土ではないが、いつ帰るとも定めて思えない別れをしているのであるのを夫人はつらく思うのである。
入道の宮も東宮のために源氏が逆境に沈んでいることを悲しんでおいでになった。そのほか源氏との宿命の深さから思っても宮のお歎《なげ》きは、複雑なものであるに違いない。これまではただ世間が恐ろしくて、少しの憐《あわれ》みを見せれば、源氏はそれによって身も世も忘れた行為に出ることが想像されて、動く心もおさえる一方にして、御自身の心までも無視して冷淡な態度を取り続けられたことによって、うるさい世間であるにもかかわらず何の噂《うわさ》も立たないで済んだのである。源氏の恋にも御自身の内の感情にも成長を与えなかったのは、ただ自分の苦しい努力があったからであると思召《おぼしめ》される宮が、尼におなりになって、源氏が対象とすべくもない解放された境地から源氏を悲しくも恋しくも今は思召されるのであった。お返事も以前のものに比べて情味があった。
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このごろはいっそう、
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しほたるることをやくにて松島に年|経《ふ》るあまもなげきをぞ積む
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というのであった。尚侍《ないしのかみ》のは、
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浦にたくあまたにつつむ恋なれば燻《くゆ》る煙よ行く方《かた》ぞなき
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今さら申し上げるまでもないことを略します。
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という短いので、中納言の君は悲しんでいる尚侍の哀れな状態を報じて来た。身にしむ節々《ふしぶし》もあって源氏は涙がこぼれた。紫の女王のは特別にこまやかな情のこめられた源氏の手紙の返事であったから、身にしむことも多く書かれてあった。
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浦人の塩|汲《く》む袖《そで》にくらべ見よ波路隔つる夜の衣を
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という夫人から、使いに託してよこした夜着や衣服類に洗練された趣味のよさが見えた。源氏はどんなことにもすぐれた女になった女王がうれしかった。青春時代の恋愛も清算して、この人と静かに生を楽しもうとする時になっていたものをと思うと、源氏は運命が恨めしかった。夜も昼も女王の面影を思うことになって、堪えられぬほど恋しい源氏は、やはり若紫は須磨へ迎えようという気になった。左大臣からの返書には若君のことがいろいろと書かれてあって、それによってまた平生以上に子と別れている親の情は動くのであるが、頼もしい祖父母たちがついていられるのであるから、気がかりに思う必要はないとすぐに考えられて、子の闇《やみ》という言葉も、愛妻を思う煩悩《ぼんのう》の闇に比べて薄いものらしくこの人には見えた。
源氏が須磨へ移った初めの記事の中に筆者は書き洩《も》らしてしまったが伊勢《いせ》の御息所《みやすどころ》のほうへも源氏は使いを出したのであった。あちらからもまたはるばると文《ふみ》を持って使いがよこされた。熱情的に書かれた手紙で、典雅な筆つきと見えた。
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どうしましても現実のことと思われませんような御|隠栖《いんせい》のことを承りました。あるいはこれもまだ私の暗い心から、夜の夢の続きを見ているのかもしれません。なお幾年もそうした運命の中にあなたがお置かれになることはおそらくなかろうと思われます。それを考えますと、罪の深い私は何時をはてともなくこの海の国にさすらえていなければならないことかと思われます。
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うきめかる伊勢をの海人《あま》を思ひやれもしほ垂《た》るてふ須磨の浦にて
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世の中はどうなるのでしょう。不安な思いばかりがいたされます。
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伊勢島や潮干《しほひ》のかたにあさりても言ふかひなきはわが身なりけり
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などという長いものである。源氏の手紙に衝動を受けた御息所はあとへあとへと書き続《つ》いで、白い支那《しな》の紙四、五枚を巻き続けてあった。書風も美しかった。愛していた人であったが、その人の過失的な行為を、同情の欠けた心で見て恨んだりしたことから、御息所も恋をなげうって遠い国へ行ってしまったのであると思うと、源氏は今も心苦しくて、済まない目にあわせた人として御息所を思っているのである。そんな所へ情のある手紙が来たのであったから、使いまでも恋人のゆかりの親しい者に思われて、二、三日滞留させて伊勢の話を侍臣たちに問わせたりした。若やかな気持ちのよい侍であった。閑居のことであるから、そんな人もやや近い所でほのかに源氏の風貌《ふうぼう》に接することもあって侍は喜びの涙を流していた。伊勢の消息に感動した源氏の書く返事の内容は想像されないこともない。
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こうした運命に出逢う日を予知していましたなら、どこよりも私はあなたとごいっしょの旅に出てしまうべきだったなどと、つれづれさから癖になりました物思いの中にはそれがよく思われます。心細いのです。
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伊勢人の波の上漕ぐ小船《をぶね》にもうきめは刈らで乗らましものを
あまがつむ歎《なげ》きの中にしほたれて何時《いつ》まで須磨の浦に眺《なが》めん
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いつ口ずからお話ができるであろうと思っては毎日同じように悲しんでおります。
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というのである。こんなふうに、どの人へも相手の心の慰むに足るような愛情を書き送っては返事を得る喜びにまた自身を慰めている源氏であった。花散里《はなちるさと》も悲しい心を書き送って来た。どれにも個性が見えて、恋人の手紙は源氏を慰めぬものもないが、また物思いの催される種《たね》ともなるのである。
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荒れまさる軒のしのぶを眺めつつ繁《しげ》くも露のかかる袖かな
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と歌っている花散里は、高くなったという雑草のほかに後見《うしろみ》をする者のない身の上なのであると源氏は思いやって、長雨に土塀《どべい》がところどころ崩《くず》れたことも書いてあったために、京の家司《けいし》へ命じてやって、近国にある領地から人夫を呼ばせて花散里の邸《やしき》の修理をさせた。
尚侍《ないしのかみ》は源氏の追放された直接の原因になった女性であるから、世間からは嘲笑《ちょうしょう》的に注視され、恋人には遠く離れて、深い歎《なげ》きの中に溺《おぼ》れているのを、大臣は最も愛している娘であったから憐《あわ》れに思って、熱心に太后へ取りなしをしたし、帝《みかど》へもお詫びを申し上げたので、尚侍は公式の女官長であって、燕寝《えんしん》に侍する女御《にょご》、更衣《こうい》が起こした問題ではないから、過失として勅免があればそれでよいということになった。帝の御|愛寵《あいちょう》を裏切って情人を持った点をお憎みになったのであるが、赦免の宣旨《せんじ》が出て宮中へまたはいることになっても、尚侍の心は源氏の恋しさに満たされていた。七月になってその事が実現された。非常なお気に入りであったのであるから、人の譏《そし》りも思召《おぼしめ》さずに、お常御殿の宿直所《とのいどころ》にばかり尚侍は置かれていた。お恨みになったり、永久に変わらぬ愛の誓いを仰せられたりする帝の御|風采《ふうさい》はごりっぱで、優美な方なのであるが、これを飽き足らぬものとは自覚していないが、なお尚侍には源氏ばかりが恋しいというのはもったいない次第である。音楽の合奏を侍臣たちにさせておいでになる時に、帝は尚侍へ、
「あの人がいないことは寂しいことだ。私でもそう思うのだから、ほかにはもっと痛切にそう思われる人があるだろう。何の上にも光というものがなくなった気がする」
と仰せられるのであった。それからまた、
「院の御遺言にそむいてしまった。私は死んだあとで罰せられるに違いない」
と涙ぐみながらお言いになるのを聞いて、尚侍は泣かずにいられなかった。
「人生はつまらないものだという気がしてきて、それとともにもう決して長くは生きていられないように思われる。私がなくなってしまった時、あなたはどう思いますか、旅へ人の行った時の別れ以上に悲しんでくれないでは私は失望する。生きている限り愛し合おうという約束をして満足している人たちに、私のあなたを思う愛の深さはわからないだろう。私は来世に行ってまであなたと愛し合いたいのだ」
となつかしい調子で仰せられる、それにはお心の底からあふれるような愛が示されていることであったから、尚侍の涙はほろほろとこぼれた。
「そら、涙が落ちる、どちらのために」
と帝はお言いになった。
「今まで私に男の子のないのが寂しい。東宮を院のお言葉どおりに自分の子のように私は考えているのだが、いろいろな人間が間にいて、私の愛が徹底しないから心苦しくてならない」
などとお語りになる。御意志によらない政治を行なう者があって、それを若いお心の弱さはどうなされようもなくて御|煩悶《はんもん》が絶えないらしい。
秋風が須磨の里を吹くころになった。海は少し遠いのであるが、須磨の関も越えるほどの秋の波が立つと行平《ゆきひら》が歌った波の音が、夜はことに高く響いてきて、堪えがたく寂しいものは謫居《たっきょ》の秋であった。居間に近く宿直《とのい》している少数の者も皆眠っていて、一人の源氏だけがさめて一つ家の四方の風の音を聞いていると、すぐ近くにまで波が押し寄せて来るように思われた。落ちるともない涙にいつか枕《まくら》は流されるほどになっている。琴《きん》を少しばかり弾《ひ》いてみたが、自身ながらもすごく聞こえるので、弾きさして、
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恋ひわびて泣く音《ね》に紛《まが》ふ浦波は思ふ方より風や吹くらん
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と歌っていた。惟光《これみつ》たちは悽惨《せいさん》なこの歌声に目をさましてから、いつか起き上がって訳もなくすすり泣きの声を立てていた。その人たちの心を源氏が思いやるのも悲しかった。自分一人のために、親兄弟も愛人もあって離れがたい故郷に別れて漂泊の人に彼らはなっているのであると思うと、自分の深い物思いに落ちたりしていることは、その上彼らを心細がらせることであろうと源氏は思って、昼間は皆といっしょに戯談《じょうだん》を言って旅愁を紛らそうとしたり、いろいろの紙を継がせて手習いをしたり、珍しい支那《しな》の綾《あや》などに絵を描《か》いたりした。その絵を屏風《びょうぶ》に貼《は》らせてみると非常におもしろかった。源氏は京にいたころ、風景を描くのに人の話した海陸の好風景を想像して描いたが、写生のできる今日になって描かれる絵は生き生きとした生命《いのち》があって傑作が多かった。
「現在での大家だといわれる千枝《ちえだ》とか、常則《つねのり》とかいう連中を呼び寄せて、ここを密画に描かせたい」
とも人々は言っていた。美しい源氏と暮らしていることを無上の幸福に思って、四、五人はいつも離れずに付き添っていた。庭の秋草の花のいろいろに咲き乱れた夕方に、海の見える廊のほうへ出てながめている源氏の美しさは、あたりの物が皆|素描《あらがき》の画《え》のような寂しい物であるだけいっそう目に立って、この世界のものとは思えないのである。柔らかい白の綾《あや》に薄紫を重ねて、藍《あい》がかった直衣《のうし》を、帯もゆるくおおように締めた姿で立ち「釈迦牟尼仏弟子《しゃかむにぶつでし》」と名のって経文を暗誦《そらよ》みしている声もきわめて優雅に聞こえた。幾つかの船が唄声《うたごえ》を立てながら沖のほうを漕《こ》ぎまわっていた。
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