いので、源氏は何度もこの歌を繰り返して唱えていた。まだ暗い間に手水《ちょうず》を済ませて念誦《ねんず》をしていることが侍臣たちに新鮮な印象を与えた。この源氏から離れて行く気が起こらないで、仮に京の家へ出かけようとする者もない。
明石《あかし》の浦は這《は》ってでも行けるほどの近さであったから、良清朝臣《よしきよあそん》は明石の入道の娘を思い出して手紙を書いて送ったりしたが返書は来なかった。父親の入道から相談したいことがあるからちょっと逢いに来てほしいと言って来た。求婚に応じてくれないことのわかった家を訪問して、失望した顔でそこを出て来る恰好《かっこう》は馬鹿《ばか》に見えるだろうと、良清は悪いほうへ解釈して行こうとしない。すばらしく自尊心は強くても、現在の国の長官の一族以外にはだれにも尊敬を払わない地方人の心理を知らない入道は、娘への求婚者を皆門外に追い払う態度を取り続けていたが、源氏が須磨に隠栖《いんせい》をしていることを聞いて妻に言った。
「桐壺《きりつぼ》の更衣《こうい》のお生みした光源氏の君が勅勘で須磨に来ていられるのだ。私の娘の運命についてある暗示を受けているのだから、どうかしてこの機会に源氏の君に娘を差し上げたいと思う」
「それはたいへんまちがったお考えですよ。あの方はりっぱな奥様を何人も持っていらっしって、その上陛下の御愛人をお盗みになったことが問題になって失脚をなすったのでしょう。そんな方が田舎《いなか》育ちの娘などを眼中にお置きになるものですか」
と妻は言った。入道は腹を立てて、
「あなたに口を出させないよ。私には考えがあるのだ。結婚の用意をしておきなさい。機会を作って明石へ源氏の君をお迎えするから」
と勝手ほうだいなことを言うのにも、風変わりな性格がうかがわれた。娘のためにはまぶしい気がするほどの華奢《かしゃ》な設備のされてある入道の家であった。
「なぜそうしなければならないのでしょう。どんなにごりっぱな方でも娘のはじめての結婚に罪があって流されて来ていらっしゃる方を婿にしようなどと、私はそんな気がしません。それも愛してくださればよろしゅうございますが、そんなことは想像もされない。戯談《じょうだん》にでもそんなことはおっしゃらないでください」
と妻が言うと、入道はくやしがって、何か口の中でぶつぶつ言っていた。
「罪に問われることは、支那《しな》でもここでも源氏の君のようなすぐれた天才的な方には必ずある災厄なのだ、源氏の君は何だと思う、私の叔父《おじ》だった按察使《あぜち》大納言の娘が母君なのだ。すぐれた女性で、宮仕えに出すと帝王の恩寵《おんちょう》が一人に集まって、それで人の嫉妬《しっと》を多く受けて亡《な》くなられたが、源氏の君が残っておいでになるということは結構なことだ。女という者は皆|桐壺《きりつぼ》の更衣《こうい》になろうとすべきだ。私が地方に土着した田舎者だといっても、その古い縁故でお近づきは許してくださるだろう」
などと入道は言っていた。この娘はすぐれた容貌《ようぼう》を持っているのではないが、優雅な上品な女で、見識の備わっている点などは貴族の娘にも劣らなかった。境遇をみずから知って、上流の男は自分を眼中にも置かないであろうし、それかといって身分相当な男とは結婚をしようと思わない、長く生きていることになって両親に死に別れたら尼にでも自分はなろう、海へ身を投げてもいいという信念を持っていた。入道は大事がって年に二度ずつ娘を住吉《すみよし》の社《やしろ》へ参詣《さんけい》させて、神の恩恵を人知れず頼みにしていた。
須磨は日の永《なが》い春になってつれづれを覚える時間が多くなった上に、去年植えた若木の桜の花が咲き始めたのにも、霞《かす》んだ空の色にも京が思い出されて、源氏の泣く日が多かった。二月二十幾日である、去年京を出た時に心苦しかった人たちの様子がしきりに知りたくなった。また院の御代《みよ》の最後の桜花の宴の日の父帝、艶《えん》な東宮時代の御兄陛下のお姿が思われ、源氏の詩をお吟じになったことも恋しく思い出された。
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いつとなく大宮人《おほみやびと》の恋しきに桜かざしし今日も来にけり
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と源氏は歌った。
源氏が日を暮らし侘《わ》びているころ、須磨の謫居《たっきょ》へ左大臣家の三位《さんみ》中将が訪《たず》ねて来た。現在は参議になっていて、名門の公子でりっぱな人物であるから世間から信頼されていることも格別なのであるが、その人自身は今の社会の空気が気に入らないで、何かのおりごとに源氏が恋しくなるあまりに、そのことで罰を受けても自分は悔やまないと決心してにわかに源氏と逢うために京を出て来たのである。親しい友人であって、しかも長く相見る時を得
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