宮へとの手紙は容易に書けなかった。宮へは、

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松島のあまの苫屋《とまや》もいかならん須磨の浦人しほたるる頃《ころ》

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いつもそうでございますが、ことに五月雨にはいりましてからは、悲しいことも、昔の恋しいこともひときわ深く、ひときわ自分の世界が暗くなった気がいたされます。
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 というのであった。尚侍《ないしのかみ》の所へは、例のように中納言の君への私信のようにして、その中へ入れたのには、
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流人《るにん》のつれづれさに昔の追想されることが多くなればなるほど、お逢いしたくてならない気ばかりがされます。

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こりずまの浦のみるめのゆかしきを塩焼くあまやいかが思はん
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 と書いた。なお言葉は多かった。左大臣へも書き、若君の乳母《めのと》の宰相の君へも育児についての注意を源氏は書いて送った。
 京では須磨の使いのもたらした手紙によって思い乱れる人が多かった。二条の院の女王《にょおう》は起き上がることもできないほどの衝撃を受けたのである。焦《こが》れて泣く女王を女房たちはなだめかねて心細い思いをしていた。源氏の使っていた手道具、常に弾《ひ》いていた楽器、脱いで行った衣服の香などから受ける感じは、夫人にとっては人の死んだ跡のようにはげしいものらしかった。夫人のこの状態がまた苦労で、少納言は北山の僧都《そうず》に祈祷《きとう》のことを頼んだ。北山では哀れな肉親の夫人のためと、源氏のために修法《しゅほう》をした。夫人の歎《なげ》きの心が静まっていくことと、幸福な日がまた二人の上に帰ってくることを仏に祈ったのである。二条の院では夏の夜着類も作って須磨へ送ることにした。無位無官の人の用いる※[#「糸+兼」、第3水準1−90−17]《かとり》の絹の直衣《のうし》、指貫《さしぬき》の仕立てられていくのを見ても、かつて思いも寄らなかった悲哀を夫人は多く感じた。鏡の影ほどの確かさで心は常にあなたから離れないだろうと言った、恋しい人の面影はその言葉のとおりに目から離れなくても、現実のことでないことは何にもならなかった。源氏がそこから出入りした戸口、よりかかっていることの多かった柱も見ては胸が悲しみでふさがる夫人であった。今の悲しみの量を過去の幾つの事に比べてみることができたりする年配の人であっても、こんなことは堪えられないに違いないのを、だれよりも睦《むつ》まじく暮らして、ある時は父にも母にもなって愛撫《あいぶ》された保護者で良人《おっと》だった人ににわかに引き離されて女王が源氏を恋しく思うのはもっともである。死んだ人であれば悲しい中にも、時間があきらめを教えるのであるが、これは遠い十万億土ではないが、いつ帰るとも定めて思えない別れをしているのであるのを夫人はつらく思うのである。
 入道の宮も東宮のために源氏が逆境に沈んでいることを悲しんでおいでになった。そのほか源氏との宿命の深さから思っても宮のお歎《なげ》きは、複雑なものであるに違いない。これまではただ世間が恐ろしくて、少しの憐《あわれ》みを見せれば、源氏はそれによって身も世も忘れた行為に出ることが想像されて、動く心もおさえる一方にして、御自身の心までも無視して冷淡な態度を取り続けられたことによって、うるさい世間であるにもかかわらず何の噂《うわさ》も立たないで済んだのである。源氏の恋にも御自身の内の感情にも成長を与えなかったのは、ただ自分の苦しい努力があったからであると思召《おぼしめ》される宮が、尼におなりになって、源氏が対象とすべくもない解放された境地から源氏を悲しくも恋しくも今は思召されるのであった。お返事も以前のものに比べて情味があった。
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このごろはいっそう、

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しほたるることをやくにて松島に年|経《ふ》るあまもなげきをぞ積む
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 というのであった。尚侍《ないしのかみ》のは、

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浦にたくあまたにつつむ恋なれば燻《くゆ》る煙よ行く方《かた》ぞなき

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今さら申し上げるまでもないことを略します。
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 という短いので、中納言の君は悲しんでいる尚侍の哀れな状態を報じて来た。身にしむ節々《ふしぶし》もあって源氏は涙がこぼれた。紫の女王のは特別にこまやかな情のこめられた源氏の手紙の返事であったから、身にしむことも多く書かれてあった。

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浦人の塩|汲《く》む袖《そで》にくらべ見よ波路隔つる夜の衣を
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 という夫人から、使いに託してよこした夜着や衣服類に洗練された趣味のよさが見えた。源
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