八月の二十日過ぎの有明月《ありあけづき》のあるころで、空の色も身にしむのである。亡《な》き子を思って泣く大臣の悲歎に同情しながらも見るに忍びなくて、源氏は車中から空ばかりを見ることになった。

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昇《のぼ》りぬる煙はそれと分《わ》かねどもなべて雲井の哀れなるかな
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 源氏はこう思ったのである。家へ帰っても少しも眠れない。故人と二人の長い間の夫婦生活を思い出して、なぜ自分は妻に十分の愛を示さなかったのであろう、信頼していてさえもらえば、異性に対する自分の愛は妻に帰るよりほかはないのだと暢気《のんき》に思って、一時的な衝動を受けては恨めしく思わせるような罪をなぜ自分は作ったのであろう。そんなことで妻は生涯《しょうがい》心から打ち解けてくれなかったのだなどと、源氏は悔やむのであるが今はもう何のかいのある時でもなかった。淡鈍《うすにび》色の喪服を着るのも夢のような気がした。もし自分が先に死んでいたら、妻はこれよりも濃い色の喪服を着て歎いているであろうと思ってもまた源氏の悲しみは湧《わ》き上がってくるのであった。

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限りあればうす墨衣浅けれど涙ぞ袖《そで》を淵《ふち》となしける
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 と歌ったあとでは念誦《ねんず》をしている源氏の様子は限りもなく艶《えん》であった。経を小声で読んで「法界|三昧《ざんまい》普賢大士」と言っている源氏は、仏勤めをし馴《な》れた僧よりもかえって尊く思われた。若君を見ても「結び置くかたみの子だになかりせば何に忍ぶの草を摘ままし」こんな古歌が思われていっそう悲しくなったが、この形見だけでも残して行ってくれたことに慰んでいなければならないとも源氏は思った。左大臣の夫人の宮様は、悲しみに沈んでお寝《やす》みになったきりである。お命も危《あぶな》く見えることにまた家の人々はあわてて祈祷《きとう》などをさせていた。寂しい日がずんずん立っていって、もう四十九日の法会《ほうえ》の仕度《したく》をするにも、宮はまったく予期あそばさないことであったからお悲しかった。欠点の多い娘でも死んだあとでの親の悲しみはどれほど深いものかしれない、まして母君のお失いになったのは、貴女《きじょ》として完全に近いほどの姫君なのであるから、このお歎きは至極道理なことと申さねばならない。ただ姫君が一人であるということも寂しくお思いになった宮であったから、その唯一の姫君をお失いになったお心は、袖《そで》の上に置いた玉の砕けたよりももっと惜しく残念なことでおありになったに違いない。
 源氏は二条の院へさえもまったく行かないのである。専念に仏勤めをして暮らしているのであった。恋人たちの所へ手紙だけは送っていた。六条の御息所《みやすどころ》は左衛門《さえもん》の庁舎へ斎宮がおはいりになったので、いっそう厳重になった潔斎的な生活に喪中の人の交渉を遠慮する意味に託《たく》してその人へだけは消息もしないのである。早くから悲観的に見ていた人生がいっそうこのごろいとわしくなって、将来のことまでも考えてやらねばならぬ幾人かの情人たち、そんなものがなければ僧になってしまうがと思う時に、源氏の目に真先《まっさき》に見えるものは西の対の姫君の寂しがっている面影であった。夜は帳台の中へ一人で寝た。侍女たちが夜の宿直《とのい》におおぜいでそれを巡ってすわっていても、夫人のそばにいないことは限りもない寂しいことであった。「時しもあれ秋やは人の別るべき有るを見るだに恋しきものを」こんな思いで源氏は寝ざめがちであった。声のよい僧を選んで念仏をさせておく、こんな夜の明け方などの心持ちは堪えられないものであった。秋が深くなったこのごろの風の音《ね》が身にしむのを感じる、そうしたある夜明けに、白菊が淡色《うすいろ》を染めだした花の枝に、青がかった灰色の紙に書いた手紙を付けて、置いて行った使いがあった。
「気どったことをだれがするのだろう」
 と源氏は言って、手紙をあけて見ると御息所の字であった。
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今まで御遠慮してお尋ねもしないでおりました私の心持ちはおわかりになっていらっしゃることでしょうか。

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人の世を哀れときくも露けきにおくるる露を思ひこそやれ

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あまりに身にしむ今朝《けさ》の空の色を見ていまして、つい書きたくなってしまったのです。
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 平生よりもいっそうみごとに書かれた字であると源氏はさすがにすぐに下へも置かれずにながめながらも、素知らぬふりの慰問状であると思うと恨めしかった。たとえあのことがあったとしても絶交するのは残酷である、そしてまた名誉を傷つけることになってはならないと思って源氏は煩悶《は
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