忘れていなければならないと辛抱《しんぼう》しているのですが、御訪問くださいましたことでかえってその努力がむだになってしまいました」
 それから、また、
「昔からこちらで作らせますお召し物も、あれからのちは涙で私の視力も曖昧《あいまい》なんですから不出来にばかりなりましたが、今日だけはこんなものでもお着かえくださいませ」
 と言って、掛けてある物のほかに、非常に凝った美しい衣裳《いしょう》一|揃《そろ》いが贈られた。当然今日の着料になる物としてお作らせになった下襲《したがさね》は、色も織り方も普通の品ではなかった。着ねば力をお落としになるであろうと思って源氏はすぐに下襲をそれに変えた。もし自分が来なかったら失望あそばしたであろうと思うと心苦しくてならないものがあった。お返辞の挨拶は、
「春の参りましたしるしに、当然参るべき私がお目にかかりに出たのですが、あまりにいろいろなことが思い出されまして、お話を伺いに上がれません。

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あまたとし今日改めし色ごろもきては涙ぞ降るここちする
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 自分をおさえる力もないのでございます」
 と取り次がせた。宮から、

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新しき年ともいはず降るものはふりぬる人の涙なりけり
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 という御返歌があった。どんなにお悲しかったことであろう。
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(訳注) 源氏二十二歳より二十三歳まで。
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底本:「全訳源氏物語 上巻」角川文庫、角川書店
   1971(昭和46)年8月10日改版初版発行
   1994(平成6)年12月20日56版発行
※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、2002(平成14)年4月5日71版を使用しました。
入力:上田英代
校正:kompass
2003年7月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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