でもなく源氏が帰って行く朝の姿の美しいのを見て、自分はとうていこの人を離れて行きうるものではないと御息所は思った。正夫人である上に子供が生まれるとなれば、その人以外の女性に持っている愛などはさめて淡《うす》いものになっていくであろう時、今のように毎日待ち暮らすことも、その辛抱《しんぼう》に命の続かなくなることであろうと、それでいてまた思われもして、たまたま逢って物思いの決して少なくはならない御息所へ、次の日は手紙だけが暮れてから送られた。
[#ここから1字下げ]
この間うち少し癒《よ》くなっていたようでした病人にまたにわかに悪い様子が見えてきて苦しんでいるのを見ながら出られないのです。
[#ここで字下げ終わり]
とあるのを、例の上手《じょうず》な口実である、と見ながらも御息所は返事を書いた。
[#ここから2字下げ]
袖《そで》濡《ぬ》るるこひぢとかつは知りながら下《お》り立つ田子の自《みづか》らぞ憂《う》き
[#ここから1字下げ]
古い歌にも「悔《くや》しくぞ汲《く》みそめてける浅ければ袖のみ濡るる山の井の水」とございます。
[#ここで字下げ終わり]
というのである。幾人かの恋人の中でもすぐれた字を書く人であると、源氏は御息所の返事をながめて思いながらも、理想どおりにこの世はならないものである。性質にも容貌《ようぼう》にも教養にもとりどりの長所があって、捨てることができず、ある一人に愛を集めてしまうこともできないことを苦しく思った。そのまた返事を、もう暗くなっていたが書いた。
[#ここから1字下げ]
袖が濡れるとお言いになるのは、深い恋を持ってくださらない方の恨みだと思います。
[#ここから2字下げ]
あさみにや人は下《お》り立つわが方《かた》は身もそぼつまで深きこひぢを
[#ここから1字下げ]
この返事を口ずから申さないで、筆をかりてしますことはどれほど苦痛なことだかしれません。
[#ここで字下げ終わり]
などと言ってあった。
葵の君の容体はますます悪い。六条の御息所の生霊であるとも、その父である故人の大臣の亡霊が憑《つ》いているとも言われる噂《うわさ》の聞こえて来た時、御息所は自分自身の薄命を歎《なげ》くほかに人を咀《のろ》う心などはないが、物思いがつのればからだから離れることのあるという魂はあるいはそんな恨みを告げに源氏の夫人の病床へ出没するか
前へ
次へ
全32ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
紫式部 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング