、源氏は直衣《のうし》だけを手でさげて屏風《びょうぶ》の後ろへはいった。中将はおかしいのをこらえて源氏が隠れた屏風を前から横へ畳み寄せて騒ぐ。年を取っているが美人型の華奢《きゃしゃ》なからだつきの典侍が以前にも情人のかち合いに困った経験があって、あわてながらも源氏をあとの男がどうしたかと心配して、床の上にすわって慄《ふる》えていた。自分であることを気づかれないようにして去ろうと源氏は思ったのであるが、だらしなくなった姿を直さないで、冠《かむり》をゆがめたまま逃げる後ろ姿を思ってみると、恥な気がしてそのまま落ち着きを作ろうとした。中将はぜひとも自分でなく思わせなければならないと知って物を言わない。ただ怒《おこ》ったふうをして太刀《たち》を引き抜くと、
「あなた、あなた」
典侍は頭中将を拝んでいるのである。中将は笑い出しそうでならなかった。平生|派手《はで》に作っている外見は相当な若さに見せる典侍も年は五十七、八で、この場合は見得《みえ》も何も捨てて二十《はたち》前後の公達《きんだち》の中にいて気をもんでいる様子は醜態そのものであった。わざわざ恐ろしがらせよう自分でないように見せようとする不自然さがかえって源氏に真相を教える結果になった。自分と知ってわざとしていることであると思うと、どうでもなれという気になった。いよいよ頭中将であることがわかるとおかしくなって、抜いた太刀を持つ肱《ひじ》をとらえてぐっとつねると、中将は見顕《みあら》わされたことを残念に思いながらも笑ってしまった。
「本気なの、ひどい男だね。ちょっとこの直衣《のうし》を着るから」
と源氏が言っても、中将は直衣を放してくれない。
「じゃ君にも脱がせるよ」
と言って、中将の帯を引いて解いてから、直衣を脱がせようとすると、脱ぐまいと抵抗した。引き合っているうちに縫い目がほころんでしまった。
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「包むめる名や洩《も》り出《い》でん引きかはしかくほころぶる中の衣に
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明るみへ出ては困るでしょう」
と中将が言うと、
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隠れなきものと知る知る夏衣きたるをうすき心とぞ見る
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と源氏も負けてはいないのである。双方ともだらしない姿になって行ってしまった。
源氏は友人に威嚇《おど》されたことを残念に思いながら宿直所《とのいどころ》で寝ていた。驚かされた典侍は翌朝残っていた指貫《さしぬき》や帯などを持たせてよこした。
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「恨みても云《い》ひがひぞなき立ち重ね引きて帰りし波のなごりに
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悲しんでおります。恋の楼閣のくずれるはずの物がくずれてしまいました」
という手紙が添えてあった。面目なく思うのであろうと源氏はなおも不快に昨夜を思い出したが、気をもみ抜いていた女の様子にあわれんでやってよいところもあったので返事を書いた。
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荒《あれ》だちし波に心は騒がねどよせけん磯《いそ》をいかが恨みぬ
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とだけである。帯は中将の物であった。自分のよりは少し色が濃いようであると、源氏が昨夜の直衣に合わせて見ている時に、直衣の袖《そで》がなくなっているのに気がついた。なんというはずかしいことだろう、女をあさる人になればこんなことが始終あるのであろうと源氏は反省した。頭中将の宿直所のほうから、
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何よりもまずこれをお綴《と》じつけになる必要があるでしょう。
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と書いて直衣の袖を包んでよこした。どうして取られたのであろうと源氏はくやしかった。中将の帯が自分の手にはいっていなかったらこの争いは負けになるのであったとうれしかった。帯と同じ色の紙に包んで、
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中絶えばかごとや負ふと危ふさに縹《はなだ》の帯はとりてだに見ず
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と書いて源氏は持たせてやった。女の所で解いた帯に他人の手が触れるとその恋は解消してしまうとも言われているのである。中将からまた折り返して、
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君にかく引き取られぬる帯なればかくて絶えぬる中とかこたん
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なんといっても責任がありますよ。
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と書いてある。昼近くになって殿上の詰め所へ二人とも行った。取り澄ました顔をしている源氏を見ると中将もおかしくてならない。その日は自身も蔵人頭《くろうどのかみ》として公用の多い日であったから至極まじめな顔を作っていた。しかしどうかした拍子に目が合うと互いにほほえまれるのである。だれもいぬ時に中将がそばへ寄って来て言った。
「隠し事には懲りたでしょう」
尻目《しりめ》で見ている。優越感があるようである。
「なあに、それよりもせっかく来ながら無駄だった人が気の毒だ。まったくは君やっかいな女だね」
秘密にしようと言い合ったが、それからのち中将はどれだけあの晩の騒ぎを言い出して源氏を苦笑させたかしれない。それは恋しい女のために受ける罰でもないのである。女は続いて源氏の心を惹《ひ》こうとしていろいろに技巧を用いるのを源氏はうるさがっていた。中将は妹にもその話はせずに、自分だけが源氏を困らせる用に使うほうが有利だと思っていた。よい外戚をお持ちになった親王方も帝《みかど》の殊寵《しゅちょう》される源氏には一目置いておいでになるのであるが、この頭中将だけは、負けていないでもよいという自信を持っていた。ことごとに競争心を見せるのである。左大臣の息子《むすこ》の中でこの人だけが源氏の夫人と同腹の内親王の母君を持っていた。源氏の君はただ皇子であるという点が違っているだけで、自分も同じ大臣といっても最大の権力のある大臣を父として、皇女から生まれてきたのである、たいして違わない尊貴さが自分にあると思うものらしい。人物も怜悧《れいり》で何の学問にも通じたりっぱな公子であった。つまらぬ事までも二人は競争して人の話題になることも多いのである。
この七月に皇后の冊立《さくりつ》があるはずであった。源氏は中将から参議に上《のぼ》った。帝が近く譲位をあそばしたい思召《おぼしめ》しがあって、藤壺《ふじつぼ》の宮のお生みになった若宮を東宮にしたくお思いになったが将来御後援をするのに適当な人がない。母方の御|伯父《おじ》は皆親王で実際の政治に携わることのできないのも不文律になっていたから、母宮をだけでも后の位に据《す》えて置くことが若宮の強味になるであろうと思召して藤壺の宮を中宮《ちゅうぐう》に擬しておいでになった。弘徽殿の女御がこれに平《たい》らかでないことに道理はあった。
「しかし皇太子の即位することはもう近い将来のことなのだから、その時は当然皇太后になりうるあなたなのだから、気をひろくお持ちなさい」
帝はこんなふうに女御を慰めておいでになった。皇太子の母君で、入内して二十幾年になる女御をさしおいて藤壺を后にあそばすことは当を得たことであるいはないかもしれない。例のように世間ではいろいろに言う者があった。
儀式のあとで御所へおはいりになる新しい中宮のお供を源氏の君もした。后と一口に申し上げても、この方の御身分は后腹の内親王であった。全《まった》い宝玉のように輝やくお后と見られたのである。それに帝の御|寵愛《ちょうあい》もたいしたものであったから、満廷の官人がこの后に奉仕することを喜んだ。道理のほかまでの好意を持った源氏は、御輿《みこし》の中の恋しいお姿を想像して、いよいよ遠いはるかな、手の届きがたいお方になっておしまいになったと心に歎《なげ》かれた。気が変になるほどであった。
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つきもせぬ心の闇《やみ》にくるるかな雲井に人を見るにつけても
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こう思われて悲しいのである。
若宮のお顔は御生育あそばすにつれてますます源氏に似ておいきになった。だれもそうした秘密に気のつく者はないようである。何をどう作り変えても源氏と同じ美貌《びぼう》を見うることはないわけであるが、この二人の皇子は月と日が同じ形で空にかかっているように似ておいでになると世人も思った。
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(訳注) この巻も前二巻と同年の秋に始まって、源氏十九歳の秋までが書かれている。
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底本:「全訳源氏物語 上巻」角川文庫、角川書店
1971(昭和46)年8月10日改版初版発行
1994(平成6)年12月20日56版発行
※このファイルは、古典総合研究所(http://www.genji.co.jp/)で入力されたものを、青空文庫形式にあらためて作成しました。
※校正には、2002(平成14)年4月5日71版を使用しました。
入力:上田英代
校正:kompass
2003年7月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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