惜《くちお》しくて、自身の期待が危《あぶな》かしいようにも思われた。
それからのち二人の貴公子が常陸《ひたち》の宮の姫君へ手紙を送ったことは想像するにかたくない。しかしどちらへも返事は来ない。それが気になって頭中将は、いやな態度だ、あんな家に住んでいるような人は物の哀れに感じやすくなっていねばならないはずだ、自然の木や草や空のながめにも心と一致するものを見いだしておもしろい手紙を書いてよこすようでなければならない、いくら自尊心のあるのはよいものでも、こんなに返事をよこさない女には反感が起こるなどと思っていらいらとするのだった。仲のよい友だちであったから頭中将は隠し立てもせずにその話を源氏にするのである。
「常陸の宮の返事が来ますか、私もちょっとした手紙をやったのだけれど何にも言って来ない。侮辱された形ですね」
自分の想像したとおりだ、頭中将はもう手紙を送っているのだと思うと源氏はおかしかった。
「返事を格別見たいと思わない女だからですか、来たか来なかったかよく覚えていませんよ」
源氏は中将をじらす気なのである。返事の来ないことは同じなのである。中将は、そこへ行きこちらへは来ないのだと口惜《くちお》しがった。源氏はたいした執心を持つのでない女の冷淡な態度に厭気《いやき》がして捨てて置く気になっていたが、頭中将の話を聞いてからは、口上手《くちじょうず》な中将のほうに女は取られてしまうであろう、女はそれで好《い》い気になって、初めの求婚者のことなどは、それは止《よ》してしまったと冷ややかに自分を見くびるであろうと思うと、あるもどかしさを覚えたのである。それから大輔《たゆう》の命婦《みょうぶ》にまじめに仲介を頼んだ。
「いくら手紙をやっても冷淡なんだ。私がただ一時的な浮気《うわき》で、そうしたことを言っているのだと解釈しているのだね。私は女に対して薄情なことのできる男じゃない。いつも相手のほうが気短に私からそむいて行くことから悪い結果にもなって、結局私が捨ててしまったように言われるのだよ。孤独の人で、親や兄弟が夫婦の中を干渉するようなうるさいこともない、気楽な妻が得られたら、私は十分に愛してやることができるのだ」
「いいえ、そんな、あなた様が十分にお愛しになるようなお相手にあの方はなられそうもない気がします。非常に内気で、おとなしい点はちょっと珍らしいほどの方ですが」
命婦は自分の知っているだけのことを源氏に話した。
「貴婦人らしい聡明《そうめい》さなどが見られないのだろう、いいのだよ、無邪気でおっとりとしていれば私は好きだ」
命婦に逢《あ》えばいつもこんなふうに源氏は言っていた。その後源氏は瘧病《わらわやみ》になったり、病気がなおると少年時代からの苦しい恋の悩みに世の中に忘れてしまうほどに物思いをしたりして、この年の春と夏とが過ぎてしまった。秋になって、夕顔の五条の家で聞いた砧《きぬた》の耳についてうるさかったことさえ恋しく源氏に思い出されるころ、源氏はしばしば常陸の宮の女王へ手紙を送った。返事のないことは秋の今も初めに変わらなかった。あまりに人並みはずれな態度をとる女だと思うと、負けたくないというような意地も出て、命婦へ積極的に取り持ちを迫ることが多くなった。
「どんなふうに思っているのだろう。私はまだこんな態度を取り続ける女に出逢ったことはないよ」
不快そうに源氏の言うのを聞いて命婦も気の毒がった。
「私は格別この御縁はよろしくございませんとも言っておりませんよ。ただあまり内気過ぎる方で男の方との交渉に手が出ないのでしょうと、お返事の来ないことを私はそう解釈しております」
「それがまちがっているじゃないか。とても年が若いとか、また親がいて自分の意志では何もできないというような人たちこそ、それがもっともだとは言えるが、あんな一人ぼっちの心細い生活をしている人というものは、異性の友だちを作って、それから優しい慰めを言われたり、自分のことも人に聞かせたりするのがよいことだと思うがね。私はもう面倒《めんどう》な結婚なんかどうでもいい。あの古い家を訪問して、気の毒なような荒れた縁側へ上がって話すだけのことをさせてほしいよ。あの人がよいと言わなくても、ともかくも私をあの人に接近させるようにしてくれないか。気短になって取り返しのならないような行為に出るようなことは断じてないだろう」
などと源氏は言うのであった。女の噂《うわさ》を関心も持たないように聞いていながら、その中のある者に特別な興味を持つような癖が源氏にできたころ、源氏の宿直所《とのいどころ》のつれづれな夜話に、命婦が何の気なしに語った常陸の宮の女王のことを始終こんなふうに責任のあるもののように言われるのを命婦は迷惑に思っていた。女王の様子を思ってみると、それが似つかわしいこととは仮にも思えないのであったから、よけいな媒介役を勤めて、結局女王を不幸にしてしまうのではないかとも思えたが、源氏がきわめてまじめに言い出していることであったから、同意のできない理由もまたない気がした。常陸の太守の宮が御在世中でも古い御代《みよ》の残りの宮様として世間は扱って、御生活も豊かでなかった。お訪《たず》ねする人などはその時代から皆無といってよい状態だったのだから、今になってはまして草深い女王の邸へ出入りしようとする者はなかった。その家へ光源氏の手紙が来たのであるから、女房らは一陽来復の夢を作って、女王に返事を書くことも勧めたが、世間のあらゆる内気の人の中の最も引っ込み思案の女王は、手紙に語られる源氏の心に触れてみる気も何もなかったのである。命婦はそんなに源氏の望むことなら、自分が手引きして物越しにお逢わせしよう、お気に入らなければそれきりにすればいいし、また縁があって情人関係になっても、それを干渉して止める人は宮家にないわけであるなどと、命婦自身が恋愛を軽いものとして考えつけている若い心に思って、女王の兄にあたる自身の父にも話しておこうとはしなかった。
八月の二十日過ぎである。八、九時にもまだ月が出ずに星だけが白く見える夜、古い邸《やしき》の松風が心細くて、父宮のことなどを言い出して、女王は命婦といて泣いたりしていた。源氏に訪《たず》ねて来させるのによいおりであると思った命婦のしらせが行ったか、この春のようにそっと源氏が出て来た。その時分になって昇《のぼ》った月の光が、古い庭をいっそう荒涼たるものに見せるのを寂しい気持ちで女王がながめていると命婦が勧めて琴を弾かせた。まずくはない、もう少し近代的の光沢が添ったらいいだろうなどと、ひそかなことを企てて心の落ち着かぬ命婦は思っていた。人のあまりいない家であったから源氏は気楽に中へはいって命婦を呼ばせた。命婦ははじめて知って驚くというふうに見せて、
「いらっしったお客様って、それは源氏の君なんですよ。始終御交際をする紹介役をするようにってやかましく言っていらっしゃるのですが、そんなことは私にだめでございますってお断わりばかりしておりますの、そしたら自分で直接お話しに行くってよくおっしゃるのです。お帰しはできませんわね。ぶしつけをなさるような方なら何ですが、そんな方じゃございません。物越しでお話をしておあげになることだけを許してあげてくださいましね」
と言うと女王は非常に恥ずかしがって、
「私はお話のしかたも知らないのだから」
と言いながら部屋の奥のほうへ膝行《いざ》って行くのがういういしく見えた。命婦は笑いながら、
「あまりに子供らしくいらっしゃいます。どんな貴婦人といいましても、親が十分に保護していてくださる間だけは子供らしくしていてよろしくても、こんな寂しいお暮らしをしていらっしゃりながら、あまりあなたのように羞恥《しゅうち》の観念の強いことはまちがっています」
こんな忠告をした。人の言うことにそむかれない内気な性質の女王は、
「返辞をしないでただ聞いてだけいてもいいというのなら、格子でもおろしてここにいていい」
と言った。
「縁側におすわらせすることなどは失礼でございます。無理なことは決してなさいませんでしょう」
体裁よく言って、次の室との間の襖子《からかみ》を命婦自身が確かに閉《し》めて、隣室へ源氏の座の用意をしたのである。源氏は少し恥ずかしい気がした。人としてはじめて逢《あ》う女にはどんなことを言ってよいかを知らないが、命婦が世話をしてくれるであろうと決めて座についた。乳母のような役をする老女たちは部屋へはいって宵惑《よいまど》いの目を閉じているころである。若い二、三人の女房は有名な源氏の君の来訪に心をときめかせていた。よい服に着かえさせられながら女王自身は何の心の動揺もなさそうであった。男はもとよりの美貌《びぼう》を目だたぬように化粧して、今夜はことさら艶《えん》に見えた。美の価値のわかる人などのいない所だのにと命婦は気の毒に思った。命婦には女王がただおおようにしているに相違ない点だけが安心だと思われた。会話に出過ぎた失策をしそうには見えないからである。自分の責めのがれにしたことで、気の毒な女王をいっそう不幸にしないだろうかという不安はもっていた。源氏は相手の身柄を尊敬している心から利巧《りこう》ぶりを見せる洒落気《しゃれぎ》の多い女よりも、気の抜けたほどおおようなこんな人のほうが感じがよいと思っていたが、襖子の向こうで、女房たちに勧められて少し座を進めた時に、かすかな衣被香《えびこう》のにおいがしたので、自分の想像はまちがっていなかったと思い、長い間思い続けた恋であったことなどを上手《じょうず》に話しても、手紙の返事をしない人からはまた口ずからの返辞を受け取ることができなかった。
「どうすればいいのです」
と源氏は歎息《たんそく》した。
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「いくそ度《たび》君が沈黙《しじま》に負けぬらん物な云《い》ひそと云はぬ頼みに
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言いきってくださいませんか。私の恋を受けてくださるのか、受けてくださらないかを」
女王の乳母の娘で侍従という気さくな若い女房が、見かねて、女王のそばへ寄って女王らしくして言った。
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鐘つきてとぢめんことはさすがにて答へまうきぞかつはあやなき
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若々しい声で、重々しくものの言えない人が代人でないようにして言ったので、貴女《きじょ》としては甘ったれた態度だと源氏は思ったが、はじめて相手にものを言わせたことがうれしくて、
「こちらが何とも言えなくなります、
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云《い》はぬをも云ふに勝《まさ》ると知りながら押しこめたるは苦しかりけり」
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いろいろと、それは実質のあることではなくても、誘惑的にもまじめにも源氏は語り続けたが、あの歌きりほかの返辞はなかった、こんな態度を男にとるのは特別な考えをもっている人なんだろうかと思うと、源氏は自身が軽侮されているような口惜《くちお》しい気がした。その時に源氏は女王の室のほうへ襖子《からかみ》をあけてはいったのである。命婦はうかうかと油断をさせられたことで女王を気の毒に思うと、そこにもおられなくて、そしらぬふうをして自身の部屋のほうへ帰った。侍従などという若い女房は光源氏ということに好意を持っていて、主人をかばうことにもたいして力が出なかったのである。こんなふうに何の心の用意もなくて結婚してしまう女王に同情しているばかりであった。女王はただ羞恥《しゅうち》の中にうずもれていた。源氏は結婚の初めのうちはこんなふうである女がよい、独身で長く大事がられてきた女はこんなものであろうと酌量《しゃくりょう》して思いながらも、手探りに知った女の様子に腑《ふ》に落ちぬところもあるようだった。愛情が新しく湧《わ》いてくるようなことは少しもなかった。歎息《たんそく》しながらまだ暁方に帰ろうと源氏はした。命婦はどうなったかと一夜じゅう心配で眠れなくて、この時の物音も知っていたが、黙っているほうがよいと思って、「お送りいたしまし
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