ことを途々《みちみち》源氏は思った。馬をはかばかしく御して行けるふうでもなかったから、惟光が横に添って行った。加茂川堤に来てとうとう源氏は落馬したのである。失心したふうで、
「家の中でもないこんな所で自分は死ぬ運命なんだろう。二条の院まではとうてい行けない気がする」
 と言った。惟光の頭も混乱状態にならざるをえない。自分が確《しか》とした人間だったら、あんなことを源氏がお言いになっても、軽率にこんな案内はしなかったはずだと思うと悲しかった。川の水で手を洗って清水《きよみず》の観音を拝みながらも、どんな処置をとるべきだろうと煩悶《はんもん》した。源氏もしいて自身を励まして、心の中で御仏《みほとけ》を念じ、そして惟光たちの助けも借りて二条の院へ行き着いた。
 毎夜続いて不規則な時間の出入りを女房たちが、
「見苦しいことですね、近ごろは平生よりもよく微行《おしのび》をなさる中でも昨日《きのう》はたいへんお加減が悪いふうだったでしょう。そんなでおありになってまたお出かけになったりなさるのですから、困ったことですね」
 こんなふうに歎息《たんそく》をしていた。
 源氏自身が予言をしたとおりに、それきり床について煩ったのである。重い容体が二、三日続いたあとはまた甚《はなはだ》しい衰弱が見えた。源氏の病気を聞こし召した帝《みかど》も非常に御心痛あそばされてあちらでもこちらでも間断なく祈祷《きとう》が行なわれた。特別な神の祭り、祓《はら》い、修法《しゅほう》などである。何にもすぐれた源氏のような人はあるいは短命で終わるのではないかといって、一天下の人がこの病気に関心を持つようにさえなった。
 病床にいながら源氏は右近を二条の院へ伴わせて、部屋《へや》なども近い所へ与えて、手もとで使う女房の一人にした。惟光《これみつ》は源氏の病の重いことに顛倒《てんとう》するほどの心配をしながら、じっとその気持ちをおさえて、馴染《なじみ》のない女房たちの中へはいった右近のたよりなさそうなのに同情してよく世話をしてやった。源氏の病の少し楽に感ぜられる時などには、右近を呼び出して居間の用などをさせていたから、右近はそのうち二条の院の生活に馴《な》れてきた。濃い色の喪服を着た右近は、容貌《ようぼう》などはよくもないが、見苦しくも思われぬ若い女房の一人と見られた。
「運命があの人に授けた短い夫婦の縁から、その片割れの私ももう長くは生きていないのだろう。長い間たよりにしてきた主人に別れたおまえが、さぞ心細いだろうと思うと、せめて私に命があれば、あの人の代わりの世話をしたいと思ったこともあったが、私もあの人のあとを追うらしいので、おまえには気の毒だね」
 と、ほかの者へは聞かせぬ声で言って、弱々しく泣く源氏を見る右近は、女主人に別れた悲しみは別として、源氏にもしまたそんなことがあれば悲しいことだろうと思った。二条の院の男女はだれも静かな心を失って主人の病を悲しんでいるのである。御所のお使いは雨の脚《あし》よりもしげく参入した。帝の御心痛が非常なものであることを聞く源氏は、もったいなくて、そのことによって病から脱しようとみずから励むようになった。左大臣も徹底的に世話をした。大臣自身が二条の院を見舞わない日もないのである。そしていろいろな医療や祈祷《きとう》をしたせいでか、二十日ほど重態だったあとに余病も起こらないで、源氏の病気は次第に回復していくように見えた。行触《ゆきぶ》れの遠慮の正規の日数もこの日で終わる夜であったから、源氏は逢《あ》いたく思召《おぼしめ》す帝《みかど》の御心中を察して、御所の宿直所《とのいどころ》にまで出かけた。退出の時は左大臣が自身の車へ乗せて邸《やしき》へ伴った。病後の人の謹慎のしかたなども大臣がきびしく監督したのである。この世界でない所へ蘇生《そせい》した人間のように当分源氏は思った。
 九月の二十日ごろに源氏はまったく回復して、痩《や》せるには痩せたがかえって艶《えん》な趣の添った源氏は、今も思いをよくして、またよく泣いた。その様子に不審を抱く人もあって、物怪《もののけ》が憑《つ》いているのであろうとも言っていた。源氏は右近を呼び出して、ひまな静かな日の夕方に話をして、
「今でも私にはわからぬ。なぜだれの娘であるということをどこまでも私に隠したのだろう。たとえどんな身分でも、私があれほどの熱情で思っていたのだから、打ち明けてくれていいわけだと思って恨めしかった」
 とも言った。
「そんなにどこまでも隠そうなどとあそばすわけはございません。そうしたお話をなさいます機会がなかったのじゃございませんか。最初があんなふうでございましたから、現実の関係のように思われないとお言いになって、それでもまじめな方ならいつまでもこのふうで進んで行くものでもないから
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