ような誇りを覚えている彼女であったから、源氏からこんな言葉を聞いてはただうれし泣きをするばかりであった。息子《むすこ》や娘は母の態度を飽き足りない歯がゆいもののように思って、尼になっていながらこの世への未練をお見せするようなものである、俗縁のあった方に惜しんで泣いていただくのはともかくもだがというような意味を、肱《ひじ》を突いたり、目くばせをしたりして兄弟どうしで示し合っていた。源氏は乳母を憐《あわれ》んでいた。
「母や祖母を早く失《な》くした私のために、世話する役人などは多数にあっても、私の最も親しく思われた人はあなただったのだ。大人《おとな》になってからは少年時代のように、いつもいっしょにいることができず、思い立つ時にすぐに訪《たず》ねて来るようなこともできないのですが、今でもまだあなたと長く逢《あ》わないでいると心細い気がするほどなんだから、生死の別れというものがなければよいと昔の人が言ったようなことを私も思う」
しみじみと話して、袖《そで》で涙を拭《ふ》いている美しい源氏を見ては、この方の乳母でありえたわが母もよい前生《ぜんしょう》の縁を持った人に違いないという気がして、さっきから批難がましくしていた兄弟たちも、しんみりとした同情を母へ持つようになった。源氏が引き受けて、もっと祈祷《きとう》を頼むことなどを命じてから、帰ろうとする時に惟光《これみつ》に蝋燭《ろうそく》を点《とも》させて、さっき夕顔の花の載せられて来た扇を見た。よく使い込んであって、よい薫物《たきもの》の香のする扇に、きれいな字で歌が書かれてある。
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心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花
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散らし書きの字が上品に見えた。少し意外だった源氏は、風流遊戯をしかけた女性に好感を覚えた。惟光に、
「この隣の家にはだれが住んでいるのか、聞いたことがあるか」
と言うと、惟光は主人の例の好色癖が出てきたと思った。
「この五、六日母の家におりますが、病人の世話をしておりますので、隣のことはまだ聞いておりません」
惟光《これみつ》が冷淡に答えると、源氏は、
「こんなことを聞いたのでおもしろく思わないんだね。でもこの扇が私の興味をひくのだ。この辺のことに詳しい人を呼んで聞いてごらん」
と言った。はいって行って隣の番人と逢って来た惟光は、
「地方庁の介《すけ》の名だけをいただいている人の家でございました。主人は田舎《いなか》へ行っているそうで、若い風流好きな細君がいて、女房勤めをしているその姉妹たちがよく出入りすると申します。詳しいことは下人《げにん》で、よくわからないのでございましょう」
と報告した。ではその女房をしているという女たちなのであろうと源氏は解釈して、いい気になって、物馴《ものな》れた戯れをしかけたものだと思い、下の品であろうが、自分を光源氏と見て詠《よ》んだ歌をよこされたのに対して、何か言わねばならぬという気がした。というのは女性にはほだされやすい性格だからである。懐紙《ふところがみ》に、別人のような字体で書いた。
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寄りてこそそれかとも見め黄昏《たそが》れにほのぼの見つる花の夕顔
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花を折りに行った随身に持たせてやった。夕顔の花の家の人は源氏を知らなかったが、隣の家の主人筋らしい貴人はそれらしく思われて贈った歌に、返事のないのにきまり悪さを感じていたところへ、わざわざ使いに返歌を持たせてよこされたので、またこれに対して何か言わねばならぬなどと皆で言い合ったであろうが、身分をわきまえないしかただと反感を持っていた随身は、渡す物を渡しただけですぐに帰って来た。
前駆の者が馬上で掲げて行く松明《たいまつ》の明りがほのかにしか光らないで源氏の車は行った。高窓はもう戸がおろしてあった。その隙間《すきま》から蛍《ほたる》以上にかすかな灯《ひ》の光が見えた。
源氏の恋人の六条|貴女《きじょ》の邸《やしき》は大きかった。広い美しい庭があって、家の中は気高《けだか》く上手《じょうず》に住み馴《な》らしてあった。まだまったく源氏の物とも思わせない、打ち解けぬ貴女を扱うのに心を奪われて、もう源氏は夕顔の花を思い出す余裕を持っていなかったのである。早朝の帰りが少しおくれて、日のさしそめたころに出かける源氏の姿には、世間から大騒ぎされるだけの美は十分に備わっていた。
今朝《けさ》も五条の蔀風《しとみふう》の門の前を通った。以前からの通り路《みち》ではあるが、あのちょっとしたことに興味を持ってからは、行き来のたびにその家が源氏の目についた。幾日かして惟光が出て来た。
「病人がまだひどく衰弱しているものでございますから、どうしてもそのほうの手が離せませんで、失
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