たのを聞いて、ほっとした源氏は、こんな危険な目にどうして自分はあうのだろう、自分の心ではあるが恋愛についてはもったいない、思うべからざる人を思った報いに、こんな後《あと》にも前《さき》にもない例となるようなみじめな目にあうのであろう、隠してもあった事実はすぐに噂《うわさ》になるであろう、陛下の思召《おぼしめ》しをはじめとして人が何と批評することだろう、世間の嘲笑《ちょうしょう》が自分の上に集まることであろう、とうとうついにこんなことで自分は名誉を傷つけるのだなと源氏は思っていた。
やっと惟光《これみつ》が出て来た。夜中でも暁でも源氏の意のままに従って歩いた男が、今夜に限ってそばにおらず、呼びにやってもすぐの間に合わず、時間のおくれたことを源氏は憎みながらも寝室へ呼んだ。孤独の悲しみを救う手は惟光にだけあることを源氏は知っている。惟光をそばへ呼んだが、自分が今言わねばならぬことがあまりにも悲しいものであることを思うと、急には言葉が出ない。右近は隣家の惟光が来た気配《けはい》に、亡《な》き夫人と源氏との交渉の最初の時から今日までが連続的に思い出されて泣いていた。源氏も今までは自身一人が強い人になって右近を抱きかかえていたのであったが、惟光の来たのにほっとすると同時に、はじめて心の底から大きい悲しみが湧《わ》き上がってきた。非常に泣いたのちに源氏は躊躇《ちゅうちょ》しながら言い出した。
「奇怪なことが起こったのだ。驚くという言葉では現わせないような驚きをさせられた。人のからだにこんな急変があったりする時には、僧家へ物を贈って読経《どきょう》をしてもらうものだそうだから、それをさせよう、願を立てさせようと思って阿闍梨《あじゃり》も来てくれと言ってやったのだが、どうした」
「昨日《きのう》叡山《えいざん》へ帰りましたのでございます。まあ何ということでございましょう、奇怪なことでございます。前から少しはおからだが悪かったのでございますか」
「そんなこともなかった」
と言って泣く源氏の様子に、惟光も感動させられて、この人までが声を立てて泣き出した。老人はめんどうなものとされているが、こんな場合には、年を取っていて世の中のいろいろな経験を持っている人が頼もしいのである。源氏も右近も惟光も皆若かった。どう処置をしていいのか手が出ないのであったが、やっと惟光が、
「この院の留守役などに真相を知らせることはよくございません。当人だけは信用ができましても、秘密の洩《も》れやすい家族を持っていましょうから。ともかくもここを出ていらっしゃいませ」
と言った。
「でもここ以上に人の少ない場所はほかにないじゃないか」
「それはそうでございます。あの五条の家は女房などが悲しがって大騒ぎをするでしょう、多い小家の近所隣へそんな声が聞こえますとたちまち世間へ知れてしまいます、山寺と申すものはこうした死人などを取り扱い馴《な》れておりましょうから、人目を紛らすのには都合がよいように思われます」
考えるふうだった惟光は、
「昔知っております女房が尼になって住んでいる家が東山にございますから、そこへお移しいたしましょう。私の父の乳母《めのと》をしておりまして、今は老人《としより》になっている者の家でございます。東山ですから人がたくさん行く所のようではございますが、そこだけは閑静です」
と言って、夜と朝の入り替わる時刻の明暗の紛れに車を縁側へ寄せさせた。源氏自身が遺骸《いがい》を車へ載せることは無理らしかったから、茣蓙《ござ》に巻いて惟光《これみつ》が車へ載せた。小柄な人の死骸からは悪感は受けないできわめて美しいものに思われた。残酷に思われるような扱い方を遠慮して、確かにも巻かなんだから、茣蓙の横から髪が少しこぼれていた。それを見た源氏は目がくらむような悲しみを覚えて煙になる最後までも自分がついていたいという気になったのであるが、
「あなた様はさっそく二条の院へお帰りなさいませ。世間の者が起き出しませんうちに」
と惟光は言って、遺骸には右近を添えて乗せた。自身の馬を源氏に提供して、自身は徒歩で、袴《はかま》のくくりを上げたりして出かけたのであった。ずいぶん迷惑な役のようにも思われたが、悲しんでいる源氏を見ては、自分のことなどはどうでもよいという気に惟光はなったのである。
源氏は無我夢中で二条の院へ着いた。女房たちが、
「どちらからのお帰りなんでしょう。御気分がお悪いようですよ」
などと言っているのを知っていたが、そのまま寝室へはいって、そして胸をおさえて考えてみると自身が今経験していることは非常な悲しいことであるということがわかった。なぜ自分はあの車に乗って行かなかったのだろう、もし蘇生《そせい》することがあったらあの人はどう思うだろう、見捨てて行ってしま
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