た。
 惟光《これみつ》が源氏の居所を突きとめてきて、用意してきた菓子などを座敷へ持たせてよこした。これまで白《しら》ばくれていた態度を右近《うこん》に恨まれるのがつらくて、近い所へは顔を見せない。惟光は源氏が人騒がせに居所を不明にして、一日を犠牲にするまで熱心になりうる相手の女は、それに価する者であるらしいと想像をして、当然自己のものになしうるはずの人を主君にゆずった自分は広量なものだと嫉妬《しっと》に似た心で自嘲《じちょう》もし、羨望《せんぼう》もしていた。
 静かな静かな夕方の空をながめていて、奥のほうは暗くて気味が悪いと夕顔が思うふうなので、縁の簾《すだれ》を上げて夕映《ゆうば》えの雲をいっしょに見て、女も源氏とただ二人で暮らしえた一日に、まだまったく落ち着かぬ恋の境地とはいえ、過去に知らない満足が得られたらしく、少しずつ打ち解けた様子が可憐《かれん》であった。じっと源氏のそばへ寄って、この場所がこわくてならぬふうであるのがいかにも若々しい。格子《こうし》を早くおろして灯《ひ》をつけさせてからも、
「私のほうにはもう何も秘密が残っていないのに、あなたはまだそうでないのだからいけない」
 などと源氏は恨みを言っていた。陛下はきっと今日も自分をお召しになったに違いないが、捜す人たちはどう見当をつけてどこへ行っているだろう、などと想像をしながらも、これほどまでにこの女を溺愛《できあい》している自分を源氏は不思議に思った。六条の貴女《きじょ》もどんなに煩悶《はんもん》をしていることだろう、恨まれるのは苦しいが恨むのは道理であると、恋人のことはこんな時にもまず気にかかった。無邪気に男を信じていっしょにいる女に愛を感じるとともに、あまりにまで高い自尊心にみずから煩《わずら》わされている六条の貴女が思われて、少しその点を取り捨てたならと、眼前の人に比べて源氏は思うのであった。
 十時過ぎに少し寝入った源氏は枕《まくら》の所に美しい女がすわっているのを見た。
「私がどんなにあなたを愛しているかしれないのに、私を愛さないで、こんな平凡な人をつれていらっしって愛撫《あいぶ》なさるのはあまりにひどい。恨めしい方」
 と言って横にいる女に手をかけて起こそうとする。こんな光景を見た。苦しい襲われた気持ちになって、すぐ起きると、その時に灯《ひ》が消えた。不気味なので、太刀《たち》を引き抜いて枕もとに置いて、それから右近を起こした。右近も恐ろしくてならぬというふうで近くへ出て来た。
「渡殿《わたどの》にいる宿直《とのい》の人を起こして、蝋燭《ろうそく》をつけて来るように言うがいい」
「どうしてそんな所へまで参れるものでございますか、暗《くろ》うて」
「子供らしいじゃないか」
 笑って源氏が手をたたくとそれが反響になった。限りない気味悪さである。しかもその音を聞きつけて来る者はだれもない。夕顔は非常にこわがってふるえていて、どうすればいいだろうと思うふうである。汗をずっぷりとかいて、意識のありなしも疑わしい。
「非常に物恐れをなさいます御性質ですから、どんなお気持ちがなさるのでございましょうか」
 と右近も言った。弱々しい人で今日の昼間も部屋《へや》の中を見まわすことができずに空をばかりながめていたのであるからと思うと、源氏はかわいそうでならなかった。
「私が行って人を起こそう。手をたたくと山彦《やまびこ》がしてうるさくてならない。しばらくの間ここへ寄っていてくれ」
 と言って、右近を寝床のほうへ引き寄せておいて、両側の妻戸の口へ出て、戸を押しあけたのと同時に渡殿についていた灯も消えた。風が少し吹いている。こんな夜に侍者は少なくて、しかもありたけの人は寝てしまっていた。院の預かり役の息子《むすこ》で、平生源氏が手もとで使っていた若い男、それから侍童が一人、例の随身、それだけが宿直《とのい》をしていたのである。源氏が呼ぶと返辞をして起きて来た。
「蝋燭《ろうそく》をつけて参れ。随身に弓の絃打《つるう》ちをして絶えず声を出して魔性に備えるように命じてくれ。こんな寂しい所で安心をして寝ていていいわけはない。先刻《せんこく》惟光《これみつ》が来たと言っていたが、どうしたか」
「参っておりましたが、御用事もないから、夜明けにお迎えに参ると申して帰りましてございます」
 こう源氏と問答をしたのは、御所の滝口に勤めている男であったから、専門家的に弓絃《ゆづる》を鳴らして、
「火|危《あぶな》し、火危し」
 と言いながら、父である預かり役の住居《すまい》のほうへ行った。源氏はこの時刻の御所を思った。殿上《てんじょう》の宿直役人が姓名を奏上する名対面はもう終わっているだろう、滝口の武士の宿直の奏上があるころであると、こんなことを思ったところをみると、まだそう深更でなか
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