の遺石がある。このドルメンが、天神地祇をまつる祭壇であるか、それともたれか貴人を葬つた墓標であるか、まだ断定されてゐない。試みにその地下数尺を掘つて見たが、これといふ遺物を発見しなかつたともいふ。
 更に数町を登つて、俗称「石仏」のメンヒルの前に立つ。この石を橋梁用に下さうと曽て掘り倒した翌朝、もとのやうに立つてゐたので、村民が恐れをなした、など口碑がある。石の前には香華が供へてあり、祈願のかなつたしるしか、高さ一丈四尺の石面にはブリキ作りの鳥居が所々打ちつけてあつたりする。
 この石仏から、曲流する肱川と大洲の町を見おろす眺望は、一幅の画図である。富士形をした如法寺山の、斧鉞を知らぬ蓊鬱な松林を中心にして、諸山諸水の配置は、正に米点の山水である。
 もし巨石群の遺跡に富む「男《お》かん」「女《め》かん」二峰の神南備山が、鬼門を守つて立つならば、この高山の石仏は、正にその正反対の裏鬼門にあたる。神南備の頂上に俗称「おしようぶ岩」のドルメンのあるに対して、この高山に立石のメンヒル――として稀有の高さを持つ――を立てたのは、神代にも天体の観測による方角観念の支配した結果でないであらうか。
 次いで村社三島神社境内にある立石――この立石を祀つた遺習が、今の三島神社建立の因となつたと想像される――を見て、暫く神社の回り縁に腰して休む。同行の一人、この山に野生するとも見えた枇杷を米嚢に一杯かついでくる。飢ゑた渇いた咽喉に、正に甘露の糧であつた。思ひを我等祖先の悠久な原始時代に馳せて、彼等が巨石の霊を信じながら、祭祀の盛典を設けた時分から、こゝに生ひ立ちみのつてゐたであらうところの、枇杷を口にする奇遇をしみ/″\感ずるのでもあつた。さうしてそれは又私の南予枇杷行のクライマツクスでなければならなかつた。

 翌日は巨石文化に関聯する、少名彦命の神陵に参拝した。途中に「神楽駄場《かぐらだば》」の平地があり、霊地を象徴する環状石群があり、遠き昔から「いらずの山」としてもつたいづけられてゐた神陵所在地は、近年或る淫祠建立のため蹂躪され、その土饅頭式陵墓の大半を破壊されてしまつた。それも某盲人の無智な少名彦神尊に端を発すといふ。
 維新前の大洲藩は、少名彦命神陵決定の場合、あるひは天領となるを恐れ、俗吏根性から極力その証左を湮滅せしめようとした形跡さへがあつた。無智な敬神観念が、陵墓の何
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