第3水準1−86−44]陵《びりょう》の堪然《たんねん》の輔行弘決《ぶぎょうぐけつ》を未だ寂心が手にし得無かったにせよ、寂心も既に半生を文字の中に暮して、経論の香気も身に浸々《しみじみ》と味わっているのであるから、止観の文の読取れぬわけは無い。然し甚源微妙《じんげんみみょう》の秘奥のところをというので、乞うて増賀の壇下に就いたのである。勿論同会の僧も幾人か有ったのである。増賀はおもむろに説きはじめた。止観|明静《めいじょう》、前代未だ聞かず、という最初のところから演《の》べる。其の何様《どう》いうところが寂心の※[#「匈/月」、928−下−18]《むね》に響いたのか、其の意味がか、其の音声《おんじょう》が乎《か》、其の何の章、何の句がか、其の講明が乎演説が乎は、今伝えられて居らぬが、蓋《けだ》し或箇処、或言句からというのでは無く、全体の其時の気味合からでも有ったろうか、寂心は大《おおい》に感激した随喜した。そして堪《たま》り兼ねて流涕《りゅてい》し、すすり泣いた。すると増賀は忽《たちま》ち座を下りて、つかつかと寂心の前へ立つなり、しや、何泣くぞ、と拳《こぶし》を固めて、したたかに寂心が面を張りゆがめた。余の話の声など立てて妨ぐればこそ、感涙を流して謹み聞けるものを打擲《ちょうちゃく》するは、と人々も苦りきって、座もしらけて其儘《そのまま》になって終《しま》った。さてあるべきではないから、寂心も涙を収め、人々も増賀をなだめすかして、ふたたび講説せしめた。と、又寂心は感動して泣いた。増賀は又拳をもって寂心を打った。是《かく》の如くにして寂心の泣くこと三たびに及び、増賀は遂に寂心の誠意誠心に感じ、流石《さすが》の増賀も増賀の方が負けて、それから遂に自分の淵底を尽して止観の奥秘を寂心に伝えたということである。何故《なにゆえ》に泣いたか、何故に打ったか、それは二人のみが知ったことで、同会の衆僧も知らず、後の我等も知らぬとして宜いことだろう。
 寂心が出家した後を続往生伝には、諸国を経歴して、広く仏事を作《な》した、とのみ記してあるばかりで、何様いうことがあったということは載せていないが、既に柔※[#「車+(而/大)、第3水準1−92−46]《にゅうなん》の仏子となった以上は別に何の事も有ろう訳も無い。しかし諸国を経歴したとある其の諸国とは何処何処であったろうかというに、西は播磨《はりま》、東は三河にまで行ったことは、証《しょう》があって分明するから、猶《なお》遠く西へも東へも行ったかと想われる。其の播磨へ行った時の事である。これは堂塔|伽藍《がらん》を建つることは、法《のり》の為、仏の為の最善根であるから、寂心も例を追うて、其のため播磨の国に行《ゆ》いて材木勧進をした折と見える。何処《いずこ》の町とも分らぬが、或処で寂心が偶然《ふと》見やると、一人の僧形の者が紙の冠を被《き》て陰陽師《おんようじ》の風体を学び、物々しげに祓《はらえ》するのが眼に入った。もとより陰陽道を以て立っている賀茂の家に生れた寂心であるから、自分は其道に依らないで儒道文辞の人となり、又其の儒を棄て仏《ぶつ》に入って今の身になってはいるものの、陰陽道の如何なるものかの大凡《おおよそ》は知っているのである。陰陽道は歴緯に法《のっと》り神鬼を駆ると称して、世俗の為に吉を致し凶を禳《はら》うものである。儒より云えば巫覡《ふげき》の道、仏より云えば旃陀羅《せんだら》の術である。それが今、かりにも法体《ほったい》して菩提《ぼだい》の大道《たいどう》に入り、人天の導師ともならんと心掛けたと見ゆる者が、紙の冠などして、えせわざするを見ては、堪え得らるればこそ、其時は寂心馬に打乗り威儀かいつくろいて路を打たせていたが、忽《たちま》ち滾《こぼ》るように馬から下《くだ》り、あわてて走り寄って、なにわざし給う御房ぞ、と詰《なじ》り咎《とが》めた。御房とは僧に対する称呼である。御房ぞと咎めたのは流石に寂心で、実に宜かった。しかし紙の冠して其様《そん》な事をするほどの者であったから、却《かえ》ってけげんな顔をしたことであろう。祓《はらえ》を仕候也、と答えた。何しに紙の冠をばしたるぞ、と問えば、祓戸の神たちは法師をば忌みたまえば、祓をするほど少時《しばし》は仕て侍《はべ》るという。寂心今は堪えかねて、声をあげて大に泣きて、陰陽師につかみかかれば、陰陽師は心得かねて只呆れに呆れ、祓をしさして、これは如何に、と云えば、頼みて祓をさせたる主人《あるじ》も驚き呆れた。寂心は猶も独り感じ泣きて、彼《か》の紙の冠を攫《つか》み取りて、引破りて地に抛《なげう》ち、漣々《れんれん》たる涙を止《とど》めもあえず、何たる御房ぞや、尊くも仏弟子となりたまいながら、祓戸の神の忌みたまうとて如来の忌みたまうことを忘れて、世俗に反り、冠などして、無間地獄《むげんじごく》に陥る業を造りたまうぞ、誠に悲しき違乱のことなり、強いて然《さ》ることせんとならば、ただここにある寂心を殺したまえ、と云いて泣くことおびただしいので、陰陽師は何としようも無く当惑したが、飽《あく》まで俗物だから、俗にくだけて打明け話に出た。仰せは一々御もっともでござる、しかし浮世の過しがたさに、是《かく》の如くに仕る、然らずば何わざをしてかは妻子をばやしない、吾《わ》が生命《いのち》をも続《つな》ぐことのなりましょうや、道業《どうごう》猶《なお》つたなければ上人とも仰がれず、法師の形には候えど俗人の如くなれば、後世《ごせ》のことはいかがと哀しくはあれど、差当りての世のならいに、かくは仕る、と語った。何時の世にも斯様《こう》いう俗物は多いもので、そして又|然様《そう》いう俗物の言うところは、俗世界には如何にも正しい情理であると首肯されるものである。しかし折角殊勝の世界に眼を着け、一旦それに対《むか》って突進しようと心ざした者共が、此の一関《いっかん》に塞止《せきと》められて已《や》むを得ずに、躊躇《ちゅうちょ》し、俳徊《はいかい》し、遂に後退するに至るものが、何程《どれほど》多いことであろうか。額を破り※[#「匈/月」、930−上−5]《むね》を傷つけるのを憚《はば》からずに敢て突進するの勇気を欠くものは、皆此の関所前で歩を横にしてぶらぶらして終《しま》うのである。芸術の世界でも、宗教の世界でも、学問の世界でも、人生戦闘の世界でも、百人が九十九人、千人が九百九十九人、皆此処で後《あと》へ退《さが》って終うのであるから、多数の人の取るところの道が正しい当然の道であるとするならば、疑も無く此の紙の冠を被《かぶ》った世渡り人《びと》の所為は正しいのである、情理至当のことなのである。寂心は飾り気の無い此の御房の打明話には、ハタと行詰らされて、優しい自分の性質から、将又《はたまた》智略を以て事に処することを卑しみ、覇気を消尽するのを以て可なりとしているような日頃の修行の心掛から、却《かえ》ってタジタジとなって押返されたことだったろう。ヤ、それは、と一句あとへ退った言葉を出さぬ訳にはゆかなかった。が、しかし信仰は信仰であった。さもあればあれ、と一[#(ト)]休め息を休めて、いかで三世如来の御姿を学ぶ御首《みぐし》の上に、勿体無くも俗の冠を被《き》玉《たま》うや、不幸に堪えずして斯様《かよう》の事を仕給うとならば、寂心が堂塔造らん料にとて勧進し集めたる物どもを御房にまいらすべし、一人を菩薩《ぼさつ》に勧むれば、堂寺造るに勝りたる功徳である、と云って、弟子共をつかわして、材木とらんとて勧進し集めたる物共を皆運び寄せて、此の陰陽師の真似をした僧に与えやり、さて自分は為すべしと思えることも得為さず、身の影ひとつ、京へ上り帰ったということである。紙の冠被った僧は其後|何様《どう》なったか知らぬが、これでは寂心という人は事業などは出来ぬ人である。道理で寂心が建立したという堂寺などの有ることは聞かぬ。後の高尾の文覚《もんがく》だの、黄蘗《おうばく》の鉄眼《てつげん》だのは、仕事師であるが、寂心は寂心であった。これでも別に悪いことは無い。
 寂心が三河国を経行したというのは、晩秋過参州薬王寺有感《ばんしうさんしうやくわうじをよぎりてかんあり》という短文が残っているので此を証するのである。勿論入道してから三河へ行ったのか、猶《なお》在俗の時行ったのかは、其文に年月の記が無いから不詳であるが、近江掾《おうみのじょう》になったことは有ったけれど、大江匡房の慶保胤伝にも、緋袍之後《ひほうののち》、不改其官《そのかんをあらためず》と有り、京官《きょうがん》であったから、三河へ下ったのは、僧になってからの事だったろうと思われる。文に、余は是れ羈旅《きりょ》の卒、牛馬の走《そう》、初尋寺次逢僧《はじめてらをたづねついでそうにあひ》、庭前俳徊《ていぜんにはいくわいし》、灯下談話《とうかにだんわす》、とあるので、羈旅牛馬の二句は在俗の時のことのようにも想われるが、庭前灯下の二句は何様《どう》も行脚修業中のこととも想われる。薬王寺は碧海郡《あおみぐん》の古刹《こさつ》で、行基《ぎょうぎ》菩薩の建立するところである。何で寂心が三河に行ったか、堂寺建立の勧化《かんげ》の為だったか何様か、それは一切考え得るところが無いが、抖※[#「手へん+數」、第3水準1−85−5]《とそう》行脚の因《ちな》みに次第次第三河の方へまで行ったとしても差支はあるまい。特《こと》に寂心が僧となっての二三年は恰《あたか》も大江|定基《さだもと》が三河守になっていた時である。定基は大江|斉光《なりみつ》の子で、斉光は参議|左大弁正三位《さたいべんしょうさんみ》までに至った人で、贈従二位大江|維時《これとき》の子であった。大江の家は大江|音人《おとんど》以来、儒道文学の大宗《たいそう》として、音人の子玉淵、千里、春潭《はるふち》、千古《ちふる》、皆詩歌を善くし、千里は和歌をも善くし、小倉百人一首で人の知っているものである。玉淵の子朝綱、千古、千古の子の維時は皆文章博士であり、維時の子の重光の子の匡衡《まさひら》も文章博士、維時の子の斉光は東宮学士、斉光の子の為基も文章博士であり、大江家の系図を覧《み》れば、文章博士や大学頭《だいがくのかみ》の鈴なりで、定基は為基の弟、匡衡とは従兄弟同士である。で、定基は父祖の功により、早く蔵人《くろうど》に擢《ぬきん》でられ、尋《つい》で二十何歳かで三河守に任ぜられたが、然様《そう》いう家柄の中に出来た人なので、もとより文学に通じ詞章を善くし、又是れ一箇の英霊底の丈夫であった。大江の家に対して、菅原古人以来、特《こと》に古人の曾孫《そうそん》に道真公を出したので大《おおい》に家声を挙げた菅原家もまた当時に輝いていたが、寂心の師事した文時は実に古人六世の孫であり、匡衡の如きも亦文時に文章詩賦の点鼠《てんざん》を乞うたというから、定基も勿論同じ文雅の道の流れのものとして、自然保胤即ち寂心とは知合で、無論年輩の関係から保胤を先輩として交っていたろうことは明らかである。
 三河守定基は、まだ三十歳にもならないのに、三河守に任ぜられたことは、其父祖の功労によったことは勿論であるが、長男でもあらばこそ、次男の身を以て其処まで出世していたことは、一は其人物が英発して居って、そして学問詞才にも長《た》け、向上心の強い、勇気のある、しかも二王の筆致を得ていたと後年になって支那の人にさえ称讃されたほどであるから、内に自から収め養うところの工夫にも切なる立派な人物、所謂《いわゆる》捨てて置いても挺然《ていぜん》として群を抜くの器量が有ったからであったろう。
 此の定基が三十歳、人生はこれからという三十歳になるやならずに、浮世を思いきって、簪纓《しんえい》を抛《なげう》ち棄て、耀《かがや》ける家柄をも離れ、木の端、竹の片《きれ》のような青道心《あおどうしん》になって、寂心の許《もと》に走り、其弟子となったのは、これも因縁|成熟《じょうじゅく》して其処に至ったのだと云えば、それまでであるが、保胤が長年の間、世路に彷
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