門は或日定基にむかって、美しいのみの力寿に溺《おぼ》るることの宜《よ》からぬことを説き、妻をやさしくあつかうべきことを、説きすすめたのである。実にそれは、言葉にそつは無く、情理兼ね到って、美しくもまたことわりせめて上手に説いたことであったろう。元来財力あるものは財を他《ひと》に貸して貧者を扶《たす》けることが出来る、才力ある者は才を他に貸して拙者を助けることが出来、自然と然様《そう》いうことの生ずるのが世の自然のありさまである。それで赤染右衛門ほどになると、自分の子の挙周が恋に落ちていた時になって、恋には最大武器である和歌を挙周に代って作ってやって、それを相手の女に寄せさせたことが数々《しばしば》有った、実に頼もしい有難いお母《っか》さんで、坊ちゃん挙周はお蔭で何程《いくら》好い男になっていたか知れない。其歌は今に明らかに残っているから、嘘でも何でもない。ところが相手の女もまだ若くて、中々赤染右衛門の代作の手はしの利いている歌に返歌は出来なかったが、幸に其の姉分に和泉式部という偉い女歌人があったから、それに頼んで答をして貰った。和泉式部の代作の恋の歌も今確存しているのである。双方手だれのくせものであるから、何の事は無い恋愛弁理士同士の雄弁巧説、うるわしかりける次第なりと云った形で、斯様いうことのつづきの末が、高《こう》[#(ノ)]武蔵守《むさしのかみ》師直《もろなお》という厭《いや》なじじいが、卜部《うらべ》の兼好という生ぐさ坊主に艶書の注文をしたなどという談《はなし》を生ずるに至っているのである。小倉百人一首に載っている、赤染右衛門、やすらはで寝なましものを小夜《さよ》ふけて傾《かたぶ》くまでの月をみしかな、は実に好い歌であるが、あれも右衛門自身の情から出た歌では無くて、人に代って其時の情状を写実に詠んだものである。恐れ入った妙作で、綿々たる情緒、傾くまでの月を見しかな、と彼《あ》の様に「かな」の二字のピンと響く「かな」は今に至るまで百千万度も使われたかなの中にも滅多には無い。あのような歌をよこされては、男子たるもの蜘蛛《くも》の糸に絡められた蜻蜒《とんぼう》のようになって了って、それこそカナ縛りにされたことだったろう。これほどの赤染右衛門に出て来られて、有り余る才を向う側に用立てられて、しかも正しい道理のある方に立って物を云われては、定基たるものも敵《かな》う筈
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