を、おかしと思うたが、年頃は忘れたに、今日思い出られたれば、それ学びて見たまで、とケロリとしていた。九十に近い老僧が瘠《や》せ枯《から》びた病躯《びょうく》に古泥障を懸けて翼として胡蝶の舞を舞うたのであった。死に瀕《ひん》したおぼえのある人は誰も語ることだが、将《まさ》に死せんとする時は幼き折の瑣事《さじ》が鮮やかに心頭に蘇《よみが》えるものだという。晴れた天《そら》の日の西山に没せんとするや、反って東の山の山膚《やまはだ》までがハッキリと見えるものだ。増賀上人の遥に遠い東の山には仔細らしい碁盤や滑稽《こっけい》な胡蝶《こちょう》舞、そんな無邪気なものが判然《はっきり》と見えたのであろう。然し其様《そん》なことを見ながらに終ったのではない、最期の時は人を去らせて、室内|廓然《かくねん》、縄床に居て口に法花経《ほけきょう》を誦《じゅ》し、手に金剛の印を結んで、端然《たんねん》として入滅したということである。布袋《ほてい》や寒山の類を散聖というが、増賀も平安期の散聖とも云うべきか。いや、其様な評頌《ひょうしょう》などは加えぬでもよい。
 寂照は宋に入って、南湖の知礼に遇い、恵心の台宗問目二十七条を呈して、其答を求めた。知礼は問書を得て一閲して嘆賞し、東方に是《かく》の如き深解《じんげ》の人あるか、と感じた。そこで答釈を作ることになった。これより先に永観元年、東大寺の僧|※[#「大/周」、第3水準1−15−73]然《ちょうねん》、入宋《にっそう》渡天の願《がん》を立てて彼地《かのち》へ到った。其前年即ち天元五年七月十三日、※[#「大/周」、第3水準1−15−73]然は母の為に修善《しゅぜん》の大会《だいえ》を催した。母は六十にして既に老いたれど、身は万里を超えて遠く行かんとするので、再会の期《ご》し難きをおもい、逆修《ぎゃくしゅ》の植善を為さんとするのであった。丁度慶滋保胤が未だ俗を脱せずに池亭を作り設けた年であったが、保胤は※[#「大/周」、第3水準1−15−73]然の為に筆を揮《ふる》って其願文を草したのであった。中々の長文で、灑々《さいさい》数千言、情を尽し理を尽し、当時の社会を動かすには十分のものであった。それから又※[#「大/周」、第3水準1−15−73]然上人の唐に赴くを餞《せん》して賦して贈る人々の詩の序をも保胤が撰《せん》した。今や其寂心は既に亡くなってい
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