博するに至つたので、今迄釜貞の上顧客《じやうとくい》であつた数軒の問屋筋も商売大事さから一人減り二人減りして、何時しか釜貞の土間には炭火もとかく湿り勝ちで、結局仕事が無ければ貯蓄《たくはへ》のない職人のこととて米櫃の中も空であるのが多いやうな仕儀となつた。
 居喰《ゐぐひ》売喰《うりぐひ》の心細い生活がやがて窮迫を告げるに至つた。釜貞は無念の歯噛みと共に今は已むなく、我から問屋に足を運んで、せめて一つの仕事にでもといふのであつたが、彼の虹蓋さへ作つて呉れるなら二十が三十の仕事でも頼むとの口上に、頑固一徹の彼は火の如き憤怒と共に座を蹴つて帰宅した。

    二

 斯うして何の才覚もなくして我家へ帰る途中、釜貞の心中には時世へ対する呪詛に満ちてゐた。が、明日の糧《かて》にも気心を配る女房の顔を見れば、釜貞も人間、只暗澹として首を俯する他はなかつた。
 ふと土間を見ると、鎚を持つて何やら打つてゐた伜の長次が、親の憂を身に引取つたやうな眼付で、
「父さん、矢張り虹蓋の註文で腹をお立てになつて帰つたんですか!」
と尋ねるではないか。
「ウム、その通りだ。だが長次、お前も十七、虹蓋つくる奴等が手筋も大方知つてゐようが、世の中は千人寄つても盲ばかりの素人たち、見かけ倒しの品物でも異《ちが》つたものを嬉しがる馬鹿さ加減つたらねえ!」
 すると長次は、親の心子知らず、只目下の窮状を見るにつけて、父親の徒らなる憤慨に異見を挟みたくなつた。
「でも父さん、何も商売、お客様の喜ぶのが虹蓋なら、長年の経験で父さんにもその製法は判つてゐやうに、ひとつお気を入れ替へてそれを作つて問屋を奪《と》り返しては如何です。今日も御留守に米屋の親父《おやぢ》が来て蓄《たま》つた米代の催促をするやら、それに炭屋や質屋の……」
 云はせも果てず父親は、
「馬鹿! 手前《てめへ》までがそんな腐つた了簡で、歿《な》くなられた浄雪師匠に済まぬとは思はぬか。軽薄な細工物は云はば廃《すた》り易い流行物《はやりもの》、一流の操《みさを》を立てゝ己《おのれ》の分を守るのが名人気質だと云ふのが分らぬか、この不了簡者。米屋がどうの、炭屋がどうの――仮令《たとへ》餓ゑ死しようと、今更虹蓋つくるやうな卑劣《けち》な了簡を持つてたまるものか!」
と大喝するのを、蔭で女房は夫の日頃の気性を知つてゐるだけに只黙※[#二の字点、1−2−
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