風邪《かぜ》でも引かしッたか。
 両手で頬杖《ほおづえ》しながら匍匐臥《はらばいね》にまだ臥《ふし》たる主人《あるじ》、懶惰《ぶしょう》にも眼ばかり動かして一《ひ》ト眼《め》見しが、身体《からだ》はなお毫《すこし》も動かさず、
「日瓢《にっぴょう》さんか、ナニ風邪じゃあねえ、フテ寝というのよ。まあ上るがいい。
とは云いたれど上りてもらいたくも無さそうな顔なり。
「ハハハ、運を寝て待つつもりかネ、上ってもご馳走《ちそう》は無さそうだ。
「違《ちげ》えねえ、煙草《たばこ》の火ぐらいなもんだ。
「ハハハ、これではお互《たがい》に浮ばれない。時に明日《あす》の晩からは柳原《やなぎはら》の例のところに○州屋《まるしゅうや》の乾分《こぶん》の、ええと、誰《だれ》とやらの手で始まるそうだ、菓子屋の源《げん》に昨日《きのう》そう聞いたが一緒《いっしょ》に行きなさらぬか。
「往《い》かれたら往こうわ、ムムそれを云いに来たのか。
「そうさ、お互に少し中《あた》り屋《や》さんにならねばならん。
「誰だってそうおもわねえものは無《ね》えんだ、御祖師様《おそしさま》でも頼みなせえ。
「からかいなさるな、罰《ばち》が当っているほうだ。
「ハハハ、からかいなさんなと云ってもらいてえ、どうも言語《ものいい》の叮嚀《ていねい》な中《うち》がいい。
「ガリスの果《はて》と知れるかノ。
「オヤ、気障《きざ》な言語《ふちょう》を知ってるな、大笑いだ。しかし、知れるかノというノの字で打壊《ぶちこわ》しだあナ、チョタのガリスのおん果《はて》とは誰が眼にも見えなくってどうするものか。
「チョタとは何だ、田舎漢《いなかもの》のことかネ。
「ムム。
「忌々《いまいま》しい、そう思わるるが厭《いや》だによって、大分気をつけているが地金《じがね》はとかく出たがるものだナ。
「ハハハ、厭だによってか、ソレそれがもういけねえ、ハハハ詰らねえ色気《いろけ》を出したもんだ。
「イヤ居《お》れば居るだけ笑われる、明日《あす》来てみよう、行かれたら一緒に行きなさい。
と立帰り行くを見送って、
「おえねえ頓痴奇《とんちき》だ、坊主《ぼうず》ッ返《けえ》りの田舎漢《いなかもの》の癖に相場《そうば》も天賽《てんさい》も気が強《つえ》え、あれでもやっぱり取られるつもりじゃあねえ中《うち》が可笑《おかし》い。ハハハ、いい業《ごう》ざらしだ。
と一人《ひとり》笑うところへ、女房おとまぶらりッと帰り来る。見れば酒も持たず豆腐も持たず。
「オイどうしたんだ。
「どうもしないよ。
 やはり寝ながらじろりッと見て、
「気のぬけたラムネのように異《おつ》うすますナ、出て行った用はどうしたんだ。
「アイ忘れたよ。
「ふざけやがるなこの婆《ばばあ》。
「邪見《じゃけん》な口のききようだねえ、阿魔だのコン畜生だの婆だのと、れっきとした内室《おかみさん》をつかめえてお慮外《りょがい》だよ、兀《はげ》ちょろ爺《じじい》の蹙足爺《いざりじじい》め。
と少し甘《あま》えて言う。男は年も三十一二、頭髪《かみ》は漆《うるし》のごとく真黒《まっくろ》にて、いやらしく手を入れ油をつけなどしたるにはあらで、短めに苅《か》りたるままなるが人に優《すぐ》れて見|好《よ》きなり。されば兀ちょろ爺と罵《ののし》りたるはわざとになるべく、蹙足爺《いざりじじい》とはいつまでも起き出でぬ故なるべし。男は罵られても激《はげ》しくは怒《おこ》らず、かえって茶にした風にて、
「やかましいやい、ほんとに酒はどうしたんでエ。
「こうしてから飲むがいいサ。
と突然《だしぬけ》に夜具を引剥《ひつぱ》ぐ。夫婦《ふうふ》の間とはいえ男はさすが狼狙《うろた》えて、女房の笑うに我からも噴飯《ふきだし》ながら衣類《きもの》を着る時、酒屋の丁稚《でっち》、
「ヘイお内室《かみさん》ここへ置きます、お豆腐は流しへ置きますよ。
と徳利《とくり》と味噌漉を置いて行くは、此家《ここ》の内儀《かみさん》にいいつけられたるなるべし。
「さあ、お前はお湯《ぶう》へいっておいでよ、その間にチャンとしておくから。
 手拭《てぬぐい》と二銭銅貨を男に渡す。片手には今手拭を取った次手《ついで》に取った帚《ほうき》をもう持っている。
「ありがてえ、昔時《むかし》からテキパキした奴《やつ》だったッケ、イヨ嚊大明神《かかあだいみょうじん》。
と小声で囃《はや》して後《あと》でチョイと舌を出す。
「シトヲ、馬鹿《ばか》にするにも程《ほど》があるよ。
 大明神|眉《まゆ》を皺《しわ》めてちょいと睨《にら》んで、思い切って強《ひど》く帚で足を薙《な》ぎたまう。
「こんべらぼうめ。
 男は笑って呵《しか》りながら出で行く。

   その二

 浴後《ゆあがり》の顔色|冴々《さえざえ》しく、どこに貧乏の苦があるか
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