という容態《ありさま》にて男は帰り来る。一体|苦《にが》み走《ばし》りて眼尻《めじり》にたるみ無く、一の字口の少し大《おおき》なるもきっと締《しま》りたるにかえって男らしく、娘にはいかがなれど浮世《うきよ》の鹹味《からみ》を嘗《な》めて来た女には好《す》かるべきところある肌合《はだあい》なリ。あたりを片付け鉄瓶《てつびん》に湯も沸《たぎ》らせ、火鉢《ひばち》も拭いてしまいたる女房おとま、片膝《かたひざ》立てながら疎《あら》い歯の黄楊《つげ》の櫛《くし》で邪見《じゃけん》に頸足《えりあし》のそそけを掻《か》き憮《な》でている。両袖《りょうそで》まくれてさすがに肉付《にくづき》の悪からぬ二の腕《うで》まで見ゆ。髪はこの手合《てあい》にお定《さだ》まりのようなお手製の櫛巻なれど、身だしなみを捨てぬに、小官吏《こやくにん》の細君《さいくん》などが四銭の丸髷《まるまげ》を二十日《はつか》も保《も》たせたるよりは遥《はるか》に見よげなるも、どこかに一時は磨《みが》き立《たて》たる光の残れるが助《たすけ》をなせるなるべし。亭主の帰り来りしを見て急に立上り、
「さあ、ここへおいで。
と坐《ざ》を与《あた》う。男は無言で坐り込み、筒湯呑《つつゆのみ》に湯をついで一杯《いっぱい》飲む。夜食膳《やしょくぜん》と云いならわした卑《いや》しい式《かた》の膳が出て来る。上には飯茶碗《めしぢゃわん》が二つ、箸箱《はしばこ》は一つ、猪口が《ちょく》が二ツと香《こう》のもの鉢《ばち》は一ツと置ならべられたり。片口は無いと見えて山形に五の字の描《か》かれた一升徳利《いっしょうどくり》は火鉢の横に侍坐《じざ》せしめられ、駕籠屋《かごや》の腕と云っては時代|違《ちが》いの見立となれど、文身《ほりもの》の様に雲竜《うんりゅう》などの模様《もよう》がつぶつぶで記された型絵の燗徳利《かんどくり》は女の左の手に、いずれ内部《なか》は磁器《せともの》ぐすりのかかっていようという薄鍋《うすなべ》が脆《もろ》げな鉄線耳《はりがねみみ》を右の手につままれて出で来る。この段取の間、男は背後《うしろ》の戸棚《とだな》に※[#「馮/几」、第4水準2−3−20]《よ》りながらぽかりぽかり煙草《たばこ》をふかしながら、腮《あご》のあたりの飛毛《とびげ》を人さし指の先へちょと灰《はい》をつけては、いたずら半分に抜《ぬ》いている。女が
前へ 次へ
全12ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング