良兼の方は勝誇つた。豊田郡の栗栖院《くるすゐん》、常羽御厩《いくはのみうまや》や将門領地の民家などを焼払つて、其翌日さつと引揚げた。
芝居で云へば性根場《しやうねば》といふところになつた。将門は一[#(ト)]塩つけられて怒気胸に充《み》ち塞《ふさ》がつたが、如何とも為《せ》ん方《かた》は無かつた。で、其月十七日になつて兵を集めて、大方郷《おほかたがう》堀越の渡に陣を構へ、敵を禦《ふせ》がうとした。大方郷は豊田郡大房村の地で、堀越は今水路が変つて渡頭《ととう》では無いが堀籠村といふところである。併《しか》し将門は前度とは異つて、手痛くは働か無かつた。記には、脚気を病んで居て、毎事|朦※[#二の字点、1−2−22]《もうもう》としてゐたといふが、そればかりが原因か、或は都での訓諭に恐懼《きようく》して、仮りにも尊族に対して私《わたくし》に兵具を動かすことは悪いと思つた、しほらしい勇士の一面の優美の感情から、吽《うん》と忍耐したのかも知れない。弱くない者には却《かへ》つて此様《かう》いふ調子はあるものである。で、はか/″\しい抵抗も何等|敢《あへ》てしなかつたから、良兼の軍は思ふが儘に乱暴した。前の恨を霽《は》らすは此時と、郡中を攻掠《こうりやく》し焚焼《ふんせう》して、随分|甚《ひど》い損害を与へた。将門は※[#「けものへん+爰」、第3水準1−87−78]島|郡《ぐん》の葦津江、今の蘆谷といふところに蟄伏《ちつぷく》したが、猶危険が身に逼《せま》るので、妻子を船に乗せて広河《ひろかは》の江に泛《うか》べ、おのれは要害のよい陸閉といふところに籠つた。広河の江といふのは飯沼《いひぬま》の事で、飯沼は今は甚《はなはだ》しく小さくなつてゐるが、それは徳川氏の時になつて、伊達弥《だてや》惣兵衛《そうべゑ》為永《ためなが》といふものが、享保年間に飯沼の水が利根川より高いこと一丈九尺、鬼怒川より高いこと横根口で六尺九寸、内守谷川|辰口《たつぐち》で一丈といふことを知つて、大工事を起して、水を落し、数千町歩の新田を造つたからである。陸閉といふ地は不明だが、蓋《けだ》し降間《ふるま》の誤写で、後の岡田郡|降間木《ふるまぎ》村の地だらうといふことである。降間木ももと降間木沼とかいふ沼があつたところである。さあ物語は一大関節にさしかゝつた。将門が斯様におとなしくして居て、むしろ敵を避け身を屈して居るやうになつたところで、良兼方の一分は立つたのだから、其儘に良兼方が凱歌を奏して退《ひ》いて終《しま》つたれば、或は和解の助言なども他から入つて、宜い程のところに双方|折合《をりあ》ふといふことも成立つたか知れないのである。ところが転石の山より下《くだ》るや其の勢《いきほひ》必ず加はる道理で、終《つひ》に良兼将門は両立す可からざる運命に到着した。それは将門が安穏を得させようとして跡を埋め身を隠させた其の愛妻を敵が発見したことであつた。どうも良兼方の憎悪は此の妻にかゝつて居たらしい。それ占《し》めたといふのであつたらう、忽ちに手対《てむか》ふ者を討殺《うちころ》し、七八|艘《さう》の船に積載した財貨三千余端を掠奪し、かよわい妻子を無漸《むざん》にも斬殺《きりころ》してしまつたのが、同月十九日の事であつた。元来火薬が無かつた訳では無いから、如何に一旦は神妙にしてゐても、此処《こゝ》に至つて爆発せずには居ない。後の世の頼朝が伊豆に潜《ひそ》んで居た時も、たゞおとなしく世を終つたかも知れないが、伊東入道に意中の女は引離され児は松川に投入れらるゝに及んで、ぶる/\と其の巨《おほ》きい頭を振つて牙《きば》を咬《か》んで怒り、せめては伊豆一国の主になつて此恨を晴らさうと奮ひ立つたとある。人間以上に心を置けば、恩愛に惹《ひ》かれて動転するのは弱くも浅くも甲斐《かひ》無くもあるが、人間としては恩愛の情の已《や》み難《がた》いのは無理も無いことである。如何《いか》に相馬小次郎が勇士でも心臓が筑波御影《つくばみかげ》で出来てゐる訳でもあるまいから、落さうと思つた妻子を殺されては、涙をこぼして口惜《くやし》がり、拳を握りつめて怒つたことであらう。これはまた暴れ出さずには居られない訳だ。しかしまだ私闘である、私闘の心が刻毒になつて来たのみである、謀反《むほん》をしようとは思つて居ないのである。
記の此処《こゝ》の文が妙に拗《ねぢ》れて居るので、清宮秀堅は、将門の妻は殺されたのでは無くて上総《かづさ》に拘《とら》はれたので、九月十日になつて弟の謀《はかりごと》によつて逃帰つたといふ事に読んでゐる。然し文に「妻子同共討取」とあるから、何様《どう》も妻子は殺されたらしく、逃還《にげかへ》つたのは一緒に居《い》た妾であるらしい。が、「爰将門妻去夫留、忿怨不[#レ]少」「件妻背[#二]同気之中[#一]、迯[#二]帰於夫家[#一]」とあるところを見ると、妻が拘はれたやうでもある。「妾恒存[#二]真婦之心[#一]」「妾之舎弟等成[#レ]謀」とあるところを見ると、妾のやうでもある。妻妾二字、形相近いから何共|紛《まぎ》らはしいが、妻子同共討取の六字があるので、妻子は殺されたものと読んで居る人もある。どちらにしても強くは言張り難いが、「然而将門尚与[#二]伯父[#一]為[#二]宿世之讐[#一]」といふ句によつて、何にせよ此事が深い怨恨《ゑんこん》になつた事と見て差支《さしつかへ》は無い。しばらく妻子は殺されて、拘《とら》はれた妾は逃帰つた事と見て置く。
此事あつてより将門は遺恨《ゐこん》已《や》み難《がた》くなつたであらう、今までは何時《いつ》も敵に寄せられてから戦つたのであるが、今度は我から軍を率《ひき》ゐて、良兼が常陸《ひたち》の真壁郡の服織《はつとり》、即ち今の筑波山の羽鳥に居たのを攻め立つた。良兼は筑波山に拠《よ》つたから羽鳥を焼払ひ、戦書を贈《おく》つて是非の一戦を遂《と》げようとしたが、良兼は陣を堅くして戦は無かつたので、将門は復讐的に散※[#二の字点、1−2−22]《さん/″\》敵地を荒して帰つた。斯様《かう》なれば互《たがひ》に怨恨《ゑんこん》は重《かさ》なるのみであるが、良兼の方は何様《どう》しても官職を帯びて居るので、官符は下《くだ》つて、将門を追捕すべき事になつた。良兼、護、今は父の後を襲ふた常陸大掾《ひたちのだいじよう》貞盛、良兼の子の公雅、公連、それから秦清文《はたきよぶみ》、此等が皆職を帯びて、武蔵、安房《あは》、上総、下総、常陸、下野諸国の武士を駆催《かりもよほ》して将門を取つて押へようとする。将門は将門で後へは引け無くなつたから勢威を張り味方を募《つの》つて対抗する。諸国の介《すけ》や守《かみ》や掾《じよう》やは、騒乱を鎮める為に戮力《りくりよく》せねばならぬのであるが、元来が私闘で、其の情実を考へれば、強《あなが》ち将門を片手落に対治すべき理があるやうにも思へぬから、官符があつても誰も好んで矢の飛び剣の舞ふ中へ出て来て危い目に逢はうとはしない。将門は一人で、官職といへば別に大したものを有してゐるのでも無い、たゞ伊勢太神宮の御屯倉《みやけ》を預かつて相馬|御厨《みくりや》の司《つかさ》であるに過ぎぬのであるに、父の余威を仮《か》るとは言へ、多勢の敵に対抗して居られるといふものは、勇悍《ゆうかん》である故のみでは無い、蓋《けだ》し人の同情を得てゐたからであつたらう。然無《さな》くば四方から圧逼《あつぱく》せられずには済まぬ訳である。
良兼は何様《どう》かして勝を得ようとしても、尋常《じんじやう》の勝負では勝を取ることが難かつた。そこで便宜《べんぎ》を伺《うかゞ》ひ巧計を以て事を済《な》さうと考へた。怠《おこた》り無く偵察《ていさつ》してゐると、丁度将門の雑人《ざふにん》に支部《はせつかべ》子春丸といふものがあつて、常陸の石田の民家に恋中《こひなか》の女をもつて居るので、時※[#二の字点、1−2−22]其許へ通ふことを聞出した。そこで子春丸をつかまへて、絹を与へたり賞与を約束したりして、将門の営の勝手を案内させることにした。将門は此頃石井に居た。石井は「いはゐ」と読むので、今の岩井が即《すなは》ちそれだ。子春丸は恋と慾とに心を取られ、良兼の意に従つて、主人の営所の勝手を悉《こと/″\》く良兼の士に教へた。良兼はほくそ笑《ゑ》んで、手腕のある者八十余騎を択《えら》んで、ひそ/\と不意打をかける支度をさせた。十二月の十四日の夕に良兼の手の者は発して、首尾よく敵地に突入し、風の如くに進んで石井の営に斫入《きりい》つた。将門の士は十人にも足らなかつたが、敵が襲ふのを注進した者があつて、急に起つて防ぎ戦つた。将門も奮闘《ふんとう》した。良兼の上兵|多治良利《たぢのよしとし》は一挙に敵を屠《ほふ》らんと努力したが、運|拙《つたな》く射殺《いころ》されたので、寄手は却《かへ》つて散※[#二の字点、1−2−22]になつて、命を落す者四十余人、可なり手痛き戦はしたが、敵地に踏込むほどの強い武者共が随分巧みに、うま/\近づいたにもかゝはらず、此の突騎襲撃も成功しなかつた。双方が精鋭|驍勇《げうゆう》、死物狂ひを極《きは》め尽した活動写真的の此の華※[#二の字点、1−2−22]しい騎馬戦も、将門方の一騎士が結城寺の前で敵が不意打に来たなと悟つて、良兼方の騎士の後から尾行《びかう》して居て、鴨橋《かもはし》(今の結城《ゆふき》郡|新宿《しんじゆく》村のかま橋)から急に駈抜《かけぬ》けて注進したため、危くも将門は勝を得てしまつた。良兼は此の失敗に多く勇士を失ひ、気屈して、勢《いきほひ》衰へ、怏※[#二の字点、1−2−22]《あう/\》として楽まず、其後は何も仕出《しいだ》し得ず、翌年天慶二年の六月上旬病死して終《しま》つた。子春丸は事あらはれて、不意討の日から幾程も無く捕へられて殺されてしまつた。
突騎襲撃の不成功に終つた翌年の春、良兼は手を出すことも出来無くなつてゐるし、貞盛も為すこと無く居ねばならぬので、かくては果てじと、貞盛は京|上《のぼ》りを企てた。都へ行つて将門の横暴を訴へ、天威を藉《か》りてこれを亡《ほろ》ぼさうといふのである。将門はこれを覚《さと》つて、貞盛に兎角《とかく》云ひこしらへさせては面倒であると、急に百余騎を率《ひき》ゐて追駈けた。二月の二十九日、山道を心がけた貞盛に、信濃《しなの》の小県《ちひさがた》の国分寺《こくぶじ》の辺で追ひついて戦つた。貞盛も思ひ設けぬでは無かつたから防ぎ箭《や》を射つた。貞盛方の佗田真樹は戦死し、将門方の文屋好立《ぶんやのよしたつ》は負傷したが助かつた。貞盛は辛《から》くも逃《のが》れて、遂《つひ》に京に到《いた》り、将門暴威を振ふの始終を申立てた。此歳五月改元、天慶元年となつて、其の六月、朝廷より将門を召すの符を得て常陸に帰り、常陸介藤原|維幾《これちか》の手から将門に渡した。将門は符を得ても命を奉じ無かつた。維幾は貞盛の叔母婿《をばむこ》であつた。
貞盛が京上りをした翌天慶二年の事である。武蔵の国にも紛擾《ふんぜう》が生じた。これも当時の地方に於て綱紀の漸《やうや》く弛《ゆる》んだことを証拠立てるものであるが、それは武蔵権守興世王と、武蔵介経基と、足立郡司判官武芝とが葛藤《かつとう》を結んで解けぬことであつた。武芝は武蔵国造《むさしのくにのみやつこ》の後で、足立《あだち》埼玉《さいたま》二郡は国中で早く開けたところであり、それから漸く人烟《じんえん》多くなつて、奥羽への官道の多摩《たま》郡中の今の府中のあるところに庁が出来たのであるが、武芝は旧家であつて、累代の恩威を積んでゐたから、当時中※[#二の字点、1−2−22]勢力のあつたものであらう、そこへ新《あらた》に権守《ごんのかみ》になつた興世王と新に介《すけ》になつた経基とが来た。経基は清和源氏の祖で六孫王其人である。興世王とは如何なる人であるか、古より誰も余り言はぬが、既に王といはれて居り、又経基との地位の関係から考へて見ても、帝系に出でゝ二代目位か三代目位の人で
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