位である、それは承平七年の四月七日である。さすれば純友と将門と合謀の事は無い。随《したが》つて叡山|瞰京《かんきやう》の事も、演劇的には有つた方が精彩があるかも知れないが、事実的には受取りかねるのである。そこで夙《つと》に覬覦《きゆ》の心を懐《いだ》いてゐたといふことは、面白さうではあるが、正統記に返還して宜《よ》いのである。正統記の作者は皇室尊崇の忠篤の念によつて彼の著述をしたのであるから、将門如きは出来るだけ筆墨の力によつて対治して置きたい余りに、深く事実を考ふるに及ばずして書いたのであらう。山陽外史に至つては多く意を経ないで筆にしたに過ぎない。
将門が検非違使《けびゐし》の佐《すけ》たらんことを求めたといふことも、神皇正統記の記事からで、それは当時の武人としては有りさうな望である。然し検非違使でゞもあれば兎に角、検非違使の別当は参議以上であるから、無位無官の者が突然にそれを望むべくは無い。して見れば検非違使の佐か尉《じよう》かを望んだとして解すべきである。これならば釣合はぬことでは無い。其代りに将門の器量は大に小さくなることであつて、そんなケチな官を望む者が、純友と共に天子関白
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