する者其数|幾許《いくばく》なるを知らず、況《いは》んや存命の黎庶《れいしよ》は、尽《こと/″\》く将門の為に虜獲せらるゝ也。」介の維幾、息男為憲を教へずして、兵乱に及ばしめしの由《よし》は、伏して過状を弁じ了《をは》んぬ。将門本意にあらずと雖《いへど》も、一国を討滅しぬれば、罪科軽からず、百県に及ぶべし。之によりて朝議を候《うかゞ》ふの間、しばらく坂東の諸国を虜掠《りよりやく》し了んぬ。」伏して昭穆《せうぼく》を案ずるに、将門は已に栢原《かしはばら》帝王五代之孫なり、たとひ永く半国を領するとも、豈《あに》非運と謂《い》はんや。昔兵威を振《ふる》ひて天下を取る者は、皆史書に見るところ也。将門天の与ふるところ既《すで》に武芸に在り、等輩を思惟するに誰か将門に比《およ》ばんや。而るに公家褒賞の由|无《な》く、屡《しば/″\》譴責《けんせき》の符を下さるゝは、身を省みるに恥多し、面目何ぞ施さん。推して之を察したまはば、甚だ以て幸《さいはひ》なり。」抑《そも/\》将門少年の日、名簿を太政大殿に奉じ、数十年にして今に至りぬ。相国摂政《しやうこくせつしよう》の世に意《おも》はざりき此事を挙げんとは。歎念の至り、言ふに勝《た》ゆ可《べ》からず。将門傾国の謀《はかりごと》を萌《きざ》すと雖《いへども》、何ぞ旧主を忘れんや。貴閣且つ之を察するを賜はらば甚だ幸なり。一を以て万を貫《つらぬ》く。将門謹言。
天慶二年十二月十五
謹※[#二の字点、1−2−22]上 太政大殿少将閣賀恩下
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此状で見ると将門が申訳《まをしわけ》の為に京に上つた後、郷に還《かへ》つておとなしくしてゐた様子は、「兵事を忘却し、弓弦を綬《ゆる》くして安居す」といふ語に明らかに見《あら》はれてゐる。そこを突然に良兼に襲はれて酷《ひど》い目に遇《あ》つたことも事実だ。で、其時に将門は正式の訴状を出して其事を告げたから、朝廷からは良兼を追捕すべきの符が下つたのだ。然《しか》るに将門は公《おほやけ》の手の廻るのを待たずに、良兼に復讐戦《ふくしゆうせん》を試みたのか、或は良兼は常陸国から正式に解文を出して弁解したため追捕の事が已《や》んだのを見て、勘忍《かんにん》ならずと常陸《ひたち》へ押寄せたのであつたらう。其時良兼が応じ戦は無いで筑波山《つくばさん》へ籠つたのは、丁度将門が前に良
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