丸の生れがはりであるとあつたといふことが扶桑略記《ふさうりやくき》に見えてゐるが、これなぞは随分|変挺《へんてこ》な御託宣だ。宇佐八幡の御託宣は名高いが、あれは別として、一体神がゝり御託宣の事は日本に古伝のあることであつて、当時の人は多く信じてゐたのである。此の八幡託宣は一場の喜劇の如くで、其の脚色者も想像すれば想像されることではあるが、或は又別に作者があつたのでは無く、偶然に起つたことかも知れない。古より東国には未だ曾《かつ》て無い大動揺が火の如くに起つて、瞬《またゝ》く間に無位無官の相馬小次郎が下総常陸上野下野を席捲《せきけん》したのだから、感じ易い人の心が激動して、発狂状態になり、斯様《かやう》なことを口走つたかとも思はれる。然《しか》らずば、一時の賞賜《しやうし》を得ようとして、斯様なことを妄言《まうげん》するに至つたのかも知れない。
 田原藤太が将門を訪ふた談《はなし》は、此の前後の事であらう。秀郷《ひでさと》は下野掾《しもつけのじよう》で、六位に過ぎぬ。左大臣|魚名《うをな》の後で、地方に蟠踞《ばんきよ》して威望を有して居たらうが、これもたゞの人ではない。何事の罪を犯したか知らぬが、延喜十六年八月十二日に配流《はいる》されたとある。同時に罪を得たものは、同国人で同姓の兼有《かねあり》、高郷《たかさと》、興貞《おきさだ》等十八人とあるから、何か可なりの事件に本《もと》づいたに相違無い。日本紀略にも罪状は出て居らぬが、都まで通つた悪事でもあり、人数も多いから、いづれ党を組み力を戮《あは》せて為《し》た事だらう。何にしても前科者だ、一筋《ひとすぢ》で行く男では無い。将門を訪ふた談《はなし》は、時代ちがひの吾妻鏡《あづまかゞみ》の治承四年九月十九日の条に、昔話として出て居るので、「藤原秀郷、偽《いつ》はりて門客に列す可《べ》きの由《よし》を称し、彼の陣に入るの処、将門喜悦の余り、梳《くし》けづるところの髪を肆《をは》らず、即ち烏帽子に引入れて之に謁《えつ》す。秀郷其の軽忽なるを見、誅罰《ちゆうばつ》す可《べ》きの趣《おもむき》を存じ退出し、本意の如く其首を獲たり云※[#二の字点、1−2−22]」といふので、源平盛衰記には、「将門と同意して朝家を傾け奉り、日本国を同心に知らんと思ひて、行向ひて角《かく》といふ」と巻二十二に書き出して、世に伝へたる髪の事、飯粒の事を
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