るが如きことは敢《あへ》てし無かつたらう。箭《や》が来たから箭を酬《むく》いた、刀が加へられたから刀を加へた、弓箭《ゆみや》取る身の是非に及ばず合戦仕つて幸《さいはひ》に斬り勝ち申したでござる、と言つたに過ぎまい。勿論|私《わたくし》に兵仗《へいぢやう》を動かした責罰|譴誨《けんくわい》は受けたに相違あるまいが、事情が分明して見れば、重罪に問ふには足《た》ら無いことが認められたのに、かてゝ加へて皇室御慶事があつたので、何等罪せらるゝに至らず、承平七年四月七日一件落着して恩詔を拝した。検非違使《けびゐし》庁《ちやう》の推問に遇《あ》うて、そして将門の男らしいことや、勇威を振つたことは、却《かへ》つて都の評判となつて同情を得たことと見える。然し干戈《かんくわ》を動かしたことは、深く公より譴責《けんせき》されたに疑無い。で、同年五月十一日に京を辞して下総に帰つた。
とは記に載つてゐるところだが、これは疑はしい。こゝに事実の前後錯誤と年月の間違があるらしい。将門は幾度も符を以て召喚されたが、最初一度は上洛し、後は上洛せずに、英保純行に委曲《ゐきよく》を告げたのである。将門はそれで宜《よ》いが、良兼等は其儘《そのまゝ》指を啣《くは》へて終ふ訳には、これも阪東武者の腹の虫が承知しない。甥《おひ》の小僧つ子に塩をつけられて、国香亡き後は一族の長者たる良兼ともある者が屈してしまふことは出来ない。護も貞盛も女達も瞋恚《しんい》の火を燃《もや》さない訳は無い。将門が都から帰つて来て流石《さすが》に謹慎して居る状《さま》を見るに及んで、怨を晴らし恥辱を雪《そゝ》ぐは此時と、良兼等は亦復《また/\》押寄せた。其年八月六日に下総境の例の小貝川の渡に良兼の軍は来た。今度は良兼もをかしな智慧《ちゑ》を出して、将門の父良将祖父高望王の像を陣頭に持出して、さあ箭《や》が放せるなら放して見よ、鉾先《ほこさき》が向けらるゝなら向けて見よと、取つて蒐《かゝ》つた。籠城でもした末に百計尽き力乏しくなつてならばいざ知らず、随分いやな事をしたものだが、如何《いか》に将門勇猛なりとも此には閉口した。「親の位牌《ゐはい》で頭こつつり」といふ演劇には、大概な暴れ者も恐れ入る格で、根が無茶苦茶な男では無い将門は神妙におとなしくして居た。おとなしくした方が何程腹の中は強いか知れないのだが、差当つて手が出せぬのを見ると、
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