内の心ある者には爪《つま》はじきせらるゝをもかまわず遂《つい》に須原の長者の家敷《やしき》も、空《むな》しく庭|中《うち》の石燈籠《いしどうろう》に美しき苔《こけ》を添えて人手に渡し、長屋門のうしろに大木の樅《もみ》の梢《こずえ》吹く風の音ばかり、今の耳にも替《かわ》らずして、直《すぐ》其傍《そのそば》なる荒屋《あばらや》に住《すま》いぬるが、さても下駄《げた》の歯《は》と人の気風は一度ゆがみて一代なおらぬもの、何一《ひ》トつ満足なる者なき中にも盃《さかずき》のみ欠かけず、柴木《しばき》へし折って箸《はし》にしながら象牙《ぞうげ》の骰子《さい》に誇るこそ愚《おろか》なれ。かゝる叔父を持つ身の当惑、御嶽《おんたけ》の雪の肌《はだ》清らかに、石楠《しゃくなげ》の花の顔|気高《けだか》く生れ付《つい》てもお辰を嫁にせんという者、七蔵と云う名を聞《きい》ては山抜け雪流《なだれ》より恐ろしくおぞ毛ふるって思い止《とま》れば、二十《はたち》を越《こ》して痛ましや生娘《きむすめ》、昼は賃仕事に肩の張るを休むる間なく、夜は宿中《しゅくじゅう》の旅籠屋《はたごや》廻《まわ》りて、元は穢多《えた》かも知れぬ客達《きゃくだち》にまで嬲《なぶ》られながらの花漬売《はなづけうり》、帰途《かえり》は一日の苦労の塊《かたま》り銅貨|幾箇《いくつ》を酒に易《か》えて、御淋《おさび》しゅう御座りましたろう、御不自由で御座りましたろうと機嫌《きげん》取りどり笑顔《えがお》してまめやかに仕うるにさえ時々は無理難題、先度《せんど》も上田《うえだ》の娼妓《じょうろ》になれと云い掛《かかり》しよし。さりとては胴慾《どうよく》な男め、生餌《いきえ》食う鷹《たか》さえ暖《ぬく》め鳥は許す者を。
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第四 如是因《にょぜいん》
上 忘られぬのが根本《こんぽん》の情《じょう》
珠運《しゅうん》は種々《さまざま》の人のありさま何と悟るべき者とも知らず、世のあわれ今宵《こよい》覚えて屋《や》の角に鳴る山風寒さ一段身に染《し》み、胸痛きまでの悲しさ我事《わがこと》のように鼻詰らせながら亭主に礼|云《い》いておのが部屋《へや》に戻《もど》れば、忽《たちまち》気が注《つく》は床の間に二タ箱買ったる花漬《はなづけ》、衣《きぬ》脱ぎかえて転《ころ》りと横になり、夜着《よぎ》引きかぶればあり/
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