なんことは忍ぶべからず、平等の見は我が敵なり、差別の観は朕が宗なり、仏陀は智なり朕は情なり、智水千頃の池を湛へば情火万丈の※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64]《ほのほ》を拳げん、抜苦与楽《ばつくよらく》の法|可笑《をかし》や、滅理絶義の道こゝに在り、朕が一脚の踏むところは、柳紅に花緑に、朕が一指のそれと指すところは、烏も白く鷺も黒し、天死せしむべく地舞はしむべく、日月暗からしむべく江海涸れしむべし、頑石笑つて且歌ひ、枯草花さいて、しかも芬《かを》る、獅子は美人が膝下に馴れ大蛇は小児の坐前に戯る、朔風暖かにして絳雪《かうせつ》香しく、瓦礫《ぐわれき》光輝を放つて盲井醇醴《まうせいじゆんれい》を噴き、胡蝶声あつて夜深く相思の吟をなす、聾者《ろうしや》能く聞き瞽者《こしや》能く見る、劒戟も折つて食《くら》ふべく鼎钁《ていくわく》も就いて浴すべし、世界はほと/\朕がまゝなり、黄身《わうしん》の匹夫、碧眼の胡児《こじ》、烏滸《をこ》の者ども朕を如何にか為し得べき、心とゞめてよく見よや、見よ、やがて此世は修羅道《しゆらだう》となり朕が眷属となるべきぞ、あら心地快や、と笑ひたまふ御声ばかりは耳に残りて、放たせ玉ふ赤光の谷※[#二の字点、1−2−22]山※[#二の字点、1−2−22]に映りあひ、天地忽ち紅色《くれなゐ》になるかと見る間に失せ玉ひぬ。
 西行はつと我に復りて、思へば夢か、夢にはあらず。おのれは猶かつ提婆品《だいばぼん》を繰りかへし/\読み居たるか、其読続き我が口頭に今も途絶えず上り来れり。[#地から2字上げ](明治二十五年五月「国会」)

     彼一日

       其一

 頼み難きは我が心なり、事あれば忽に移り、事無きもまた動かんとす。生じ易きは魔の縁なり、念《おもひ》を放《ほしいまゝ》にすれば直に発《おこ》り、念を正しうするも猶起らんとす。此故に心は大海の浪と揺《ゆら》ぎて定まる時無く、縁は荒野の草と萠えて尽くる期《ご》あらねば、たま/\大勇猛の意気を鼓して不退転の果報を得んとするものも、今日の縁にひかれて旧年の心を失ふ輩は、可惜《あたら》舟を出して彼岸に到り得ず、憂くも道に迷ひて穢土《ゑど》に復還るに至る。されば心を収むるは霊地に身を※[#「宀/眞」、第3水準1−47−57]《お》くより好きは無く、縁を遮るは浄業《じやうごふ》に思を傾くるを最も勝れたりとなす。木片の薬師、銅塊《どうくわい》の弥陀《みだ》は、皆これ我が心を呼ぶの設け、崇《あが》め尊まぬは烏滸《をこ》なるべく、高野の蘭若《らんにや》、比叡《ひえ》の仏刹《ぶつさつ》、いづれか道の念を励まさゞらむ、参り詣《いた》らざるは愚魯《おろか》なるべし。古の人の、麻の袂を山おろしの風に翻し、法衣《ころも》の裾を野路の露に染めつゝ、東西に流浪し南北に行きかひて、幾干《いくそ》の坂に谷に走り疲れながら猶辛しともせざるものは、心を霊地の霊気に涵《ひた》し念を浄業の浄味に育みて、正覚の暁を期すればなり。鏡に対《むか》ひては髪の乱れたるを愧《は》ぢ、金《こがね》を懐にすれば慾の亢《たかぶ》るを致す習ひ、善くも悪くも其境に因り其機に随ひて凡夫の思惟《しゆゐ》は転ずるなれば、たゞ後の世を思ふものは眼に仏菩薩の尊容を仰ぎ、口に経陀羅尼《きやうだらに》の法文を誦《じゆ》して、夢にも現にも市※[#「廛+おおざと」、第3水準1−92−84]《してん》栄花《えいぐわ》の巷に立入ること無く、朝も夕も山林|閑寂《かんじやく》の郷に行ひ済ましてあるべきなり。首《かうべ》を回らせば徃時をかしや、世の春秋に交はりて花には喜び月には悲み、由無き七情の徃来に泣きみ笑ひみ過ごしゝが、思ひたちぬる墨染の衣を纏ひしより今は既《はや》、指を※[#「てへん+婁」、123−下−27]《かゞな》ふれば十《と》あまり三歳《みとせ》に及びて秋も暮れたり。修行の年も漸く積もりぬ、身もまた初老に近づきぬ。流石心も澄み渡りて乱るゝことも少くなり、旧縁は漸く去り尽して胸に纏《まつ》はる雲も無し。忽然《こつねん》として其初一人来りし此裟婆に、今は孑然《げつぜん》として一人立つ。待つは機の熟して果《このみ》の落つる我が命終《みやうじゆう》の時のみなり。あら快《こゝろよ》の今の身よ、氷雨降るとも雪降るとも、憂を知らぬ雲の外に嘯《うそぶ》き立てる心地して、浮世の人の厭ふ冬さへ却つてなか/\をかしと見る、此の我が思ひの長閑さは空飛ぶ禽もたゞならず。されど禅悦《ぜんえつ》に着《ぢやく》するも亦是修道の過失《あやまち》と聞けば、ひとり一室に籠り居て驕慢の念を萠さんよりは、歩《あゆみ》を処※[#二の字点、1−2−22]の霊地に運びて寺※[#二の字点、1−2−22]の御仏をも拝み奉り、勝縁《しようえん》を結びて魔縁を斥け、仏事に勤め
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