さゝか後世御安楽の御祈りをもつかまつるべきか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

       其三

 頃は十月の末、ところは荒凉たる境なれば、見渡す限りの景色いともの淋しく、冬枯れ野辺を吹きすさむ風|蕭※[#二の字点、1−2−22]《せう/\》と衣裾《もすそ》にあたり、落葉は辿る径を埋めて踏む足ごとにかさこそと、小語《さゝや》くごとき声を発する中を※[#「足へん+禹」、第3水準1−92−38]※[#二の字点、1−2−22]然《くゝぜん》として歩む西行。衆聖中尊《しゆじやうちゆうそん》、世間之父《せけんしふ》、一切衆生《いつさいしゆじやう》、皆是吾子《かいぜごし》、深着世楽《しんぢやくせらく》、無有慧心《むうゑしん》、などと譬喩品《ひゆぼん》の偈《げ》を口の中にふつ/\と唱へ/\、従ふ影を友として漸やく山にさしかゝり、次第/\に分け登れば、力なき日はいつしか光り薄れて時雨空の雲の往来《ゆきき》定めなく、後山《こうざん》晴るゝ歟《か》と見れば前山忽まちに曇り、嵐に駆《か》られ霧に遮《さ》へられて、九折《つゞら》なる岨《そば》を伝ひ、過ぎ来し方さへ失ふ頃、前途《ゆくて》の路もおぼつかなきまで黒みわたれる森に入るに、樅《もみ》柏《かしは》の大樹《おほき》は枝を交はし葉を重ねて、杖持てる我が手首《たなくび》をも青むるばかり茂り合ひ、梢に懸れる松蘿《さるをがせ》は※[#「髟/參」、第4水準2−93−26]※[#二の字点、1−2−22]《さん/\》として静かに垂れ、雨降るとしは無けれども空翠凝つて葉末より滴る露の冷やかに、衣の袖も立ち迷へる水気に湿りて濡れたるごとし。音にきゝたる児《ちご》が岳《たけ》とは今白雲に蝕まれ居る峨※[#二の字点、1−2−22]《がゞ》と聳えし彼《あの》峯ならめ、さては此あたりにこそ御墓《みしるし》はあるべけれと、ひそかに心を配る折しも、見る/\千仭《せんじん》の谷底より霧漠※[#二の字点、1−2−22]と湧き上り、風に乱れて渦巻き立ち、崩るゝ雲と相応じて、忽ち大地に白布を引きはへたる如く立籠むれば、呼吸するさへに心ぐるしく、四方《あたり》を視るに霧の隔てゝ天地《あめつち》はたゞ白きのみ、我が足すらも定かに見えず。何と思ひも分け得ざる間に、雲霧|自然《おのづ》と消え行けば、岩角の苔、樹の姿、ありしに変らで眼《まなこ》に遮るものもなく、たゞ冬の日の暮れやす
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