、ふりすてて来し方もさすがに思わざるにはあらず。海気は衣を撲《う》って眠《ねむ》り美ならず、夢魂《むこん》半夜|誰《た》が家をか遶《めぐ》りき。
 二十七日正午、舟《ふね》岩内を発し、午後五時|寿都《すっつ》という港に着きぬ。此地《ここ》はこのあたりにての泊舟《はくしゅう》の地なれど、地形|妙《みょう》ならず、市街も物淋《ものさび》しく見ゆ。また夜泊《やはく》す。
 二十七日の夜ともいうべき二十八日の夙《はや》くに出港せしが、浪風あらく雲乱れて、後には雨さえ加わりたり。福山すなわち松前《まつまえ》と往時《むかし》は云《い》いし城下に暫時《ざんじ》碇泊《ていはく》しけるに、北海道には珍《めず》らしくもさすがは旧城下だけありて白壁《しらかべ》づくりの家など眸《め》に入る。此地には長寿《ちょうじゅ》の人|他処《よそ》に比べて多く、女も此地生れなるは品よくして色|麗《うる》わしく、心ざま言葉つきも優しき方なるが多きよし、気候水土の美なればなるべし。上陸して逍遥《しょうよう》したきは山々なれど雨に妨《さまた》げられて舟を出でず。やがてまた吹き来し強き順風に乗じて船此地を発し、暮るる頃|函館《はこだて》に着き、直《ただ》ちに上陸してこの港のキトに宿りぬ。建築《けんちく》半ばなれども室広く器物清くして待遇《たいぐう》あしからず、いと心地よし。
 二十九日、市中を散歩するにわずか二年余見ざりしうちに、著しく家列《いえなら》びもよく道路も美しくなり、大町末広町なんどおさおさ東京にも劣《おと》るべからず。公園のみは寒気強きところなれば樹木の勢いもよからで、山水の眺《なが》めはありながら何となく飽《あ》かぬ心地すれど、一切の便利は備わりありて商家の繁盛《はんじょう》云《い》うばかり無し。客窓の徒然《つれづれ》を慰《なぐさ》むるよすがにもと眼にあたりしままジグビー、グランドを、文魁堂《ぶんかいどう》とやら云える舗《みせ》にて購《こ》うて帰りぬ。午後、我がせし狼藉《ろうぜき》の行為《こうい》のため、憚《はばか》る筋の人に捕《とら》えられてさまざまに説諭《せつゆ》を加えられたり。されどもいささか思い定むるよし心中にあれば頑《がん》として屈《くっ》せず、他の好意をば無になして辞して帰るやいなや、直ちに三里ほど隔《へだ》たれる湯の川温泉というに到《いた》り、しこうして封書《ふうしょ》を友人に送り、
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