そぎ、高き杉の樹梢《こずえ》などは見えわかぬほど霧深き暁の冷やかなるが中を歩みて、寒月子ともども本社に至り階《きざはし》を上りて片隅に扣《ひか》ゆ。朝々の定まれる業なるべし、神主|禰宜《ねぎ》ら十人ばかり皆|厳《おごそ》かに装束《しょうぞく》引きつくろいて祝詞《のりと》をささぐ。宮柱太しく立てる神殿いと広く潔《きよ》らなるに、此方《こなた》より彼方《かなた》へ二行《ふたつら》に点《とも》しつらねたる御燈明《みあかし》の奥深く見えたる、祝詞の声のほがらかに澄みて聞えたる、胆にこたえ身に浸《し》みて有りがたく覚えぬ。やがて退《まか》り立ちて、ここの御社の階《はし》の下の狛犬も狼の形をなせるを見、酒倉の小さからぬを見などして例のところに帰り、朝食《あさげ》をすます。
これよりなお荒川に沿いて上り、雁坂《かりさか》峠を越えて甲斐《かい》の笛吹《ふえふき》川の水上に出で、川と共に下りて甲斐に入り、甲斐路を帰らんと予《かね》ては心の底に思い居けるが、ここにて問い糺《ただ》せば、甲斐の川浦という村まで八里八町人里もなく、草高くして路もたえだえなりとの事に望を失ない、引返さんと心をきわむ。日本武尊の常陸《ひたち》より甲斐の酒折に至りたまいし時は、いずれの路を取り玉いしやらん。常陸より甲斐に至らんに武蔵《むさし》よりせんには、荒川に沿いて上ると玉川に沿いて上るとの二路あり。三峰、武光、八日見山を首とし、秩父には尊の通り玉いし由のいい伝え処々に存《のこ》れるが、玉川の水上即ち今の甲斐路にも同じようの伝説《いいつたえ》なきにあらず。また尊の酒折より武蔵上野を経て信濃《しなの》に至りたまいし時は、いずくに出で玉いしならん。酒折より笛吹川に沿うて上りたまいしならんには必ず秩父を経たまいしなるべし。雁坂の路は後北条氏頃には往来絶えざりしところにて、秩父と甲斐の武田氏との関係浅からざりしに考うるも、甚《はなは》だ行き通いし難からざりし路なりしこと推測《おしはか》らる。家を出ずる時は甲斐に越えんと思いしものを口惜《くちおし》とはおもいながら、尊の雄々しくましませしには及ぶべくもあらねば、雁坂を過ぎんことは思い断えつ、さればとて大日向の太陽寺へ廻らん心も起さず、ひた走りに走り下りて大宮に午餉《ひるげ》す。ふたたび郷平《ごうへい》橋を渡りつつ、赤平川を郷平川ともいうは、赤平の文字もと吾平と書きたるを
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