栄《はえ》あらしむること能わず、惜みてもなお惜むべきなり。
堂のこなた一段低きところの左側に、堂守る人の居るところならんと思しき家ありて、檐に響板《ばんぎ》懸り、それに禅教尼という文字見えたり。ここの別当橋立寺と予《かね》て聞けるはこれにやと思いつつ音ない驚かせば、三十路《みそぢ》あまりの女の髪は銀杏返《いちょうがえ》しというに結び、指には洋銀の戒指《ゆびわ》して、手頸《てくび》には風邪ひかぬ厭勝《まじない》というなる黒き草綿糸《もめんいと》の環《わ》かけたるが立出でたり。さすがに打収めたるところありて全くのただ人とも見えぬは、これぞ響板の面に見えたる人なるべし。奥の院の窟の案内頼みたき由をいい入るれば、少時待ち玉えとて茶を薦《すす》めなどしつ、やおら立上りたり。何するぞと見るに、やがて頸《くび》長き槌を手にして檐近く進み寄り、とうとうとうと彼の響板を打鳴らす。禽《とり》も啼《な》かざる山間《やまあい》の物静かなるが中なれば、その声谿に応え雲に響きて岩にも侵み入らんばかりなりしが、この音の知らせにそれと心得てなるべし、筒袖の単衣《ひとえ》着て藁草履《わらぞうり》穿《は》きたる農民の婦《おんな》とおぼしきが、鎌を手にせしまま那処《いずく》よりか知らず我らが前に現れ出でければ、そぞろに梁山泊《りょうざんぱく》の朱貴が酒亭も思い合わされて打笑まれぬ。
婦は我らを一目見て直ちに鎌を捨て、蝋燭《ろうそく》、鍵などを主人《あるじ》の尼より受け取り、いざ来玉えと先立ちて行く。後に従いて先に見たる窟の口に到れば、女先ず鎖を開き燭《ひ》を点《とも》して、よく心し玉えなどいい捨てて入る。背をかがめ身を窄《せば》めでは入ること叶わざるまで口は狭きに、行くては日の光の洩るる隙もなく真黒にして、まことに人の世の声も風も通わざるべきありさま、吾他《われひと》が終《つい》に眠らん墓穴もかくやと思わるるにぞ、さすがに歩《あゆみ》もはかばかしくは進まず。されど今さら入らずして已《や》まん心もなければ、後れじものと従いて入るに、下ること二、三十歩にして窟の内やや広くなり、人々立ち行くことを得《う》。婦燭を執《と》りて窟壁《いわ》の其処此処《そこここ》を示し、これは蓮花の岩なり、これは無明の滝、乳房の岩なりなどと所以《いわれ》なき名を告ぐ。この窟上下四方すべて滑らかにして堅き岩なれば、これらの名は皆
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