たと》えば糸を絡う用にすなる※[#「竹かんむり/隻」、第3水準1−89−69]子《いとわく》というもののいと大なるを、竿に貫《ぬ》きて立てたるが如し。何ぞと問うに、四方幕というものぞという。心得がたき名なり。
 石原というところに至れば、左に折るる路ありて、そこに宝登山《ほどさん》道としるせる碑《いし》に対《むか》いあいて、秩父|三峰《みつみね》道とのしるべの碑立てり。径路《こみち》は擱《お》きていわず、東京より秩父に入るの大路は数条ありともいうべきか。一つは青梅線の鉄道によりて所沢に至り、それより飯能《はんのう》を過ぎ、白子より坂石に至るの路《みち》なり。これを我野通《あがのどお》りと称えて、高麗《こま》より秩父に入るの路とす。次には川越《かわごえ》より小川にかかり、安戸に至るの路なり。これを川越通りと称え、比企《ひき》より秩父に入るの路とす。中仙道熊谷より荒川に沿い寄居《よりい》を経て矢那瀬に至るの路を中仙道通りと呼び、この路と川越通りを昔時《むかし》は秩父へ入るの大路としたりと見ゆ。今は汽車の便《たより》ありて深谷《ふかや》より寄居に至る方、熊谷より寄居に至るよりもやや近ければ、深谷まで汽車にて行き越し、そこより馬車の便りを仮《か》りて寄居に至り、中仙道通りの路に合する路を人の取ることも少からずと聞く。同じ汽車にて本庄《ほんじょう》まで行き、それより児玉《こだま》町を経て秩父に入る一路は児玉郡よりするものにて、東京より行かんにははなはだしく迂《う》なるが如くなれども、馬車の接続など便よければこの路を取る人も少からず。上州の新町にて汽車を下り、藤岡より鬼石にかかり、渡良瀬《わたらせ》川を渡りて秩父に入るの一路もまた小径にあらざれど、東京よりせんにはあまりに迂遠《まわりどお》かるべし。我野、川越、熊谷、深谷、本庄、新町以上合せて六路の中、熊谷よりする路こそ大方《おおかた》は荒川に沿いたれば、我らが住家のほとりを流るる川の水上と思うにつけて興も多かるべけれと択び定め来しが、今この岐路《わかれじ》にしるべの碑のいと大きなるが立てられたるを見ては、あるが中にも正しき大路を取りたるかとおぼえて心嬉し。
 広瀬、大麻生、明戸などいえる村々が稲田桑圃の間を過ぎて行くうち、日はやや傾きて雨持つ雲のむずかしげに片曇りせる天《そら》のさま、そぞろに人をして暑さを厭《いと》う暇もなく
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