《またが》れるといえる、まことにさもあるべし。この山のとなえをいつの頃よりか武甲と書きならわししより、終《つい》に国の名の武蔵の文字と通わせて、日本武尊《やまとたけるのみこと》東夷《あずまえびす》どもを平げたまいて後|甲冑《よろいかぶと》の類をこの山に埋めたまいしかは、国を武蔵と呼び山を武甲というなどと説くものあるに至れり。説のいつわりなるべきは誰しも知るところなれど、山の頂に日本武尊をいつきまつりありなんどするまま、なおあるいは然らんとおもう人もなきにあらず。されど文字も古くは武光とのみ書きて武甲とは書かねば、強言《しいごと》そのよりどころを失うというべし。さてまたひそかにおもうに、武光のとなえも甚だ故なきに似て、地理の書などにもその説を欠けり。けだし疑うらくはここらを領せし人の名などより、たけ光の庄、たけ光の山などとの称の起りたるならんか。いと古くより秩父の郡に拠《よ》りて栄えたる丹の党には、その初めてここに来りし丹治比武信、また初めてここを領せし武経などの如く、武の字を名につけたるもの多ければ、あるいは武光というものもありしかと思わる。ただし地の名より人の名の起れる例《ためし》は多けれど、人の名より地の名の起れる例はいと少ければ、武光は人の名ならんとの考えもいと力なしなど思いつつ、桑圃の中の一すじ路を行くに、露もまだ乾ぬ桑の葉の上吹く朝風いと涼しく、心地よきこというばかりなし。武光山より右にあたりて山々連なり立てるが中に、三峰《みつみね》は少しく低く黒みて見ゆ。それより奥の方、甲斐境《かいざかい》信濃境の高き嶺々重なり聳《そび》えて天《そら》の末をば限りたるは、雁坂十文字《かりさかじゅうもんじ》など名さえすさまじく呼ぶものなるべし。
進み進みて下影森を過ぎ上影森村というに至るに、秩父二十八番の観音へ詣らんにはここより入るべしと、道のわかれに立札せるあり。二十八番の観音は、その境内にいと深くして奇しき窟あるを以て名高きところなれば、秩父へ来し甲斐《かい》には特にも詣らんかとおもいしところなり。いざとて左のかたの小き径に入る。枝路のことなれば闊《ひろ》からず平かならず、誰《た》が造りしともなく自然《おのず》と里人が踏みならせしものなるべく、草に埋もれ木の根に荒れて明らかならず、迷わんとすること数次《しばしば》なり。山沿いの木下蔭小暗きあたりを下ること少時にして、
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