しあつてゐられた。
繪は椿岳氏から學ばれたのか何樣か知らない。が、後に至つて自然と何處か椿岳氏と血脈|相牽《あひひ》くところの畫を作られたのに比して、早い頃のものは畫は眞面目な、手際のきれいな方のものであつた。
讀書はヘチ堅いものの方へは向はれ無かつたが、美術、文學、隨筆、雜書方面へは中※[#二の字点、1−2−22]廣く渉られ、文學は徳川期、美術は奈良あたりまで、特《こと》に美術の方は書籍研究のみで無く、實物研究にも年月を過されたから、其の鑑識眼は實技上の智識が内部から支持するのと相伴つて、直覺的にばかりで無く、比較的にばかりで無く、精髓から出發して看到するところの中※[#二の字点、1−2−22]手強いものが有つた。世間慾が盛んで、書畫骨董でも取扱つた日には、學問も文字も相當にあり、愛嬌も有り聰明怜悧の人であつたから、慥に巨萬の富を獲るに足るのであつたが、それでゐて其樣な事で利を得る人を冷眼に見るやうな傾が有つて、そんな事を敢てしなかつたところは、一ツは生活難が無かつた爲でもあらうが、氏のおもしろい氣風のところであつて、傲岸の氣味の無いでも無かつた依田學海氏などの氏を打寛いだ好い友人とした所以であつた。文學に於ても矢張り其氣味があつて、根深く手を染めてゐれば、多數で無いにせよ、必ずや一部二部は此人で無ければ書けないといふやうなものを留めたのに相違無いのに、西鶴ばりの「百美人」だのなんだのといふのを一寸書いた位で終つて仕舞つたのは、それも却つて其一生が幸福で有つた證據で芽出度には相違無いが、少し殘りをしい氣がする。俳諧なぞも芭蕉以後のイヤにショボたれたやうなのは嫌ひで、宗因風の所謂檀林がゝつたのを、我流でホンのよみすてに吟出するに止まつたから、永機なぞと知合つたにもかゝはらず、俳諧もおもちやにするに過ぎなかつた。エラがつて、おれの俳諧は眞劍だなぞと云ひながら、好い句も作れぬばかりで無く、審美眼さへまだ碌に開いてゐないやうな人※[#二の字点、1−2−22]とはまるで行き方が違つてゐて、勝手に遊んでゐたといふ風なので、句も
[#天から4字下げ]行水は其日※[#二の字点、1−2−22]※[#二の字点、1−2−22]の湯くわん哉
といふやうなのが多い。寫實の句になると猶更抛り出したやうなのが好きで、
[#天から4字下げ]見おろすや音羽の瀧に三人ならぶ
は何樣だい、
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