もあれば出来も佳《よ》い品で、価値《ねうち》にすればその猪口とは十倍も違《ちが》いましょうに、それすら何とも思わないでお諦めなすったあなたが、なんだってそんなに未練らしいことを仰《おっ》しゃるのです。まあ一盃《ひとつ》召《め》し上れな、すっかり御酒《ごしゅ》が醒《さ》めておしまいなすったようですね。」
と激《はげ》まして慰めた。それでも主人はなんとなく気が進まぬらしかった。しかし妻の深切《しんせつ》を無にすまいと思うてか、重々しげに猪口を取って更に飲み始めた。けれども以前のように浮き立たない。
「どうもやはり違った猪口だと酒も甘《うま》くない、まあ止めて飯《めし》にしようか。」
とやはり大層|沈《しず》んでいる。細君は余り未練すぎるとややたしなめるような調子で、
「もういい加減にお諦らめなさい。」
ときっばり言った。
「ウム、諦めることは諦めるよ。だがの、別段未練を残すのなんのというではないが、茶人は茶碗《ちゃわん》を大切《だいじ》にする、飲酒家《さけのみ》は猪口を秘蔵にするというのが、こりゃあ人情だろうじゃないか。」
「だって、今出してまいったのも同じ永楽ですよ。それに毀れた方はざっとした菫花《すみれ》の模様で、焼も余りよくありませんが、こちらは中は金襴地《きんらんじ》で外は青華《せいか》で、工手間《くでま》もかかっていれば出来もいいし、まあ永楽という中《うち》にもこれ等《ら》は極上《ごくじょう》という手だ、とご自分で仰《おっし》ゃった事さえあるじゃあございませんか。」
「ウム、しかしこの猪口は買ったのだ。去年の暮におれが仲通の骨董店《どうぐや》で見つけて来たのだが、あの猪口は金銭《おあし》で買ったものじゃあないのだ。」
「ではどうなさったのでございます。」
「ヤ、こりゃあ詰らないことをうっかり饒舌《しゃべ》った。ハハハハハ。」
と紛《まぎ》らしかけたが、ふと目を挙《あ》げて妻の方を見れば妻は無言で我が面をじっと護《まも》っていた。主人もそれを見て無言になってしばしは何か考えたが、やがて快活《きさく》な調子になって、
「ハハハハハハ。」
と笑い出した。その面上にははや不快の雲は名残《なごり》無く吹き掃《はら》われて、その眼《まなこ》は晴やかに澄《す》んで見えた。この僅少《わずか》の間に主人はその心の傾《かたむ》きを一転したと見えた。
「ハハハハ、云うてしまおう、云うてしまおう。一人で物をおもう事はないのだ、話して笑ってしまえばそれで済むのだ。」
と何か一人で合点《がてん》した主人は、言葉さえおのずと活気を帯びて来た。
「ハハハハハ、お前を前に置いてはちと言い苦《にく》い話だがナ。実はあの猪口は、昔《むかし》おれが若かった時分、アア、今思えば古い、古い、アアもう二十年も前のことだ。おれが思っていた女があったが、ハハハハ、どうもちッと馬鹿《ばか》らしいようで真面目《まじめ》では話せないが。」
と主人は一口飲んで、
「まあいいわ。これもマア、酒に酔ったこの場だけの坐興で、半分位も虚言《うそ》を交《ま》ぜて談《はな》すことだと思って聞いていてくれ。ハハハハハ。まだ考のさっぱり足りない、年のゆかない時分のことだ。今思えば真実《ほんと》に夢《ゆめ》のようなことでまるで茫然《ぼんやり》とした事だが、まあその頃はおれの頭髪《あたま》もこんなに禿《は》げてはいなかったろうというものだし、また色も少しは白かったろうというものだ。何といっても年が年だから今よりはまあ優《ま》しだったろうさ、いや何もそう見っともなく無かったからという訳ばかりでも無かったろうが、とにかくある娘に思われたのだ。思えば思うという道理で、性《しょう》が合ったとでもいう事だったが、先方《さき》でも深切にしてくれる、こっちでもやさしくする。いやらしい事なぞはちっとも口にしなかったが、胸と胸との談話《はなし》は通って、どうかして一緒《いっしょ》になりたい位の事は互《たがい》に思い思っていたのだ。ところがその娘の父に招《よ》ばれて遊びに行った一日《あるひ》の事だった、この盃で酒を出された。まだその時分は陶工《やきものし》の名なんぞ一ツだって知っていた訳では無かったが、ただ何となく気に入ったので切《しきり》とこの猪口を面白《おもしろ》がると、その娘の父がおれに対《むか》って、こう申しては失礼ですが此盃《これ》がおもしろいとはお若いに似ずお目が高い、これは佳いものではないが了全《りょうぜん》の作で、ざっとした中にもまんざらの下手《へた》が造ったものとは異《ちが》うところもあるように思っていました、と悦《よろこ》んで話した。そうすると傍《そば》に居た娘が口を添えて、大層お気に入ったご様子ですが、お気に召しましたのは其盃《それ》の仕合せというものでございます、宜《よろ》しゅうございますから
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