その後はどういう人に縁付いて、どこにその娘がどう生活《くら》しているかということも知らないばかりか、知ろうとおもう意《こころ》も無いのだから、無論その女をどうこうしようというような心は夢《ゆめ》にも持たぬ。無かった縁に迷《まよ》いは惹《ひ》かぬつもりで、今日に満足して平穏《へいおん》に日を送っている。ただ往時《むかし》の感情《おもい》の遺《のこ》した余影《かげ》が太郎坊の湛《たた》える酒の上に時々浮ぶというばかりだ。で、おれはその後その娘を思っているというのではないが、何年後になっても折節は思い出すことがあるにつけて、その往昔《むかし》娘を思っていた念《おもい》の深さを初めて知って、ああこんなにまで思い込んでいたものがよくあの時に無分別をもしなかったことだと悦《よろ》こんでみたり、また、これほどに思い込んでいたものでも、無い縁は是非が無いで今に至ったが、天の意《こころ》というものはさて測られないものではあると、なんとなく神さまにでも頼《たよ》りたいような幽微《かすか》な感じを起したりするばかりだった。お前が家へ来てからももうかれこれ十五六年になるが、おれが酒さえ飲むといえばどんな時でも必らずあの猪口で飲むでいたが、談《はな》すには及《およ》ばないことだからこの仔細《しさい》は談しもしなかった。この談《はなし》は汝《おまえ》さえ知らないのだもの誰《だれ》が知っていよう、ただ太郎坊ばかりが、太郎坊の伝言《ことづて》をした時分のおれをよく知っているものだった。ところでこの太郎坊も今宵《こよい》を限りにこの世に無いものになってしまった。その娘はもう二十年も昔から、存命《ながら》えていることやら死んでしもうたことやらも知れぬものになってしまう、わずかに残っていたこの太郎坊も土に帰ってしまう。花やかで美しかった、暖かで燃え立つようだった若い時のすべての物の紀念《かたみ》といえば、ただこの薄禿頭、お恰好の紅絹《もみ》のようなもの一つとなってしもうたかとおもえば、ははははは、月日というものの働きの今更ながら強いのに感心する。人の一代というものは、思えば不思議のものじゃあ無いか。頭が禿げるまで忘れぬほどに思い込んだことも、一ツ二ツと轄《くさび》が脱《ぬ》けたり輪《わ》が脱《と》れたりして車が亡《な》くなって行くように、だんだん消ゆるに近づくというは、はて恐ろしい月日の力だ。身にも替《か》えまいとまでに慕《した》ったり、浮世を憂《う》いとまでに迷ったり、無い縁は是非もないと悟ったりしたが、まだどこともなく心が惹かされていたその古い友達の太郎坊も今宵は摧《くだ》けて亡くなれば、恋《こい》も起らぬ往時《むかし》に返った。今の今まで太郎坊を手放さずおったのも思えば可笑しい、その猪口を落して摧いてそれから種々《いろいろ》と昔時《むかし》のことを繰返して考え出したのもいよいよ可笑しい。ハハハハ、氷を弄《もてあそ》べば水を得るのみ、花の香《におい》は虚空《そら》に留まらぬと聞いていたが、ほんとにそうだ。ハハハハ。どれどれ飯《めし》にしようか、長話しをした。」
と語り了《おわ》って、また高く笑った。今は全く顔付も冴えざえとした平生《つね》の主人であった。細君は笑いながら聞き了りて、一種の感に打たれたかのごとく首を傾けた。
「それほどまでに思っていらしったものが、一体まあどうして別れなければならない機会《はめ》になったのでしょう、何かそれには深い仔細があったのでしょうが。」
とは思わず口頭《くちさき》に迸《はし》った質問で、もちろん細君が一方《ひとかた》ならず同情を主人の身の上に寄せたからである。しかし主人はその質問には答えなかった。
「それを今更話したところで仕方がない。天下は広い、年月《つきひ》は際涯無《はてしな》い。しかし誰一人おれが今ここで談す話を虚言《うそ》だとも真実《ほんと》だとも云い得る者があるものか、そうしてまたおれが苦しい思いをした事を善いとも悪いとも判断してくれるものが有るものか。ただ一人遺っていた太郎坊は二人の間の秘密をも悉《くわ》しく知っていたが、それも今|亡《むな》しくなってしまった。水を指さしてむかしの氷の形を語ったり、空を望んで花の香《か》の行衛《ゆくえ》を説いたところで、役にも立たぬ詮議《せんぎ》というものだ。昔時《むかし》を繰返して新しく言葉を費《ついや》したって何になろうか、ハハハハ、笑ってしまうに越したことは無い。云わば恋の創痕《きずあと》の痂《かさぶた》が時節到来して脱《はが》れたのだ。ハハハハ、大分いい工合《ぐあい》に酒も廻《まわ》った。いい、いい、酒はもうたくさんだ。」
と云い終って主人は庭を見た。一陣《いちじん》の風はさっと起《おこ》って籠洋燈《かごランプ》の火を瞬《またた》きさせた。夜の涼しさは座敷に満ちた。
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