どころのある奴の。」
 罵《ののし》らるべくもあるところを却《かえ》って褒められて、二人は裸身《はだかみ》の背中を生《なま》蛤《はまぐり》で撫でられたでもあるような変な心持がしたろう。
「これほどの世間の重宝を、手ずからにても取り置きすることか、召使に心ままに出し入れさすること、日頃の大気、又|下《しも》の者を頼みきって疑わぬところ、アア、人の主《しゅ》たるものは然様《そう》無《の》うては叶わぬ、主に取りたいほどの器量よし。……それが世に無くて、此様《こん》なところにある、……」
 二人を相手にしての話では無かった。主は家隷《けらい》を疑い、郎党は主を信ぜぬ今の世に対しての憤懣《ふんまん》と悲痛との慨歎《がいたん》である。此家《このや》の主人はかく云われて、全然意表外のことを聞かされ、へどもどするより外は無かった。
「しかし、此処の器量よしめの。かほどの器量までにおのれを迫《せり》上《あ》げて居おるのも、おのれの私を成そうより始まったろう。エーッ、忌々しい。」
 眼の中より青白い火が飛んで出たかと思われた。主人は訳はわからぬが、其|一閃《いっせん》の光に射られて、おのずと吾《わ》が眼を閉じて了った。
「この女めも、弁口、取りなし、下の者には十二分の出来者。しかも生命《いのち》を捨ててもと云居った、うその無い、あの料簡《りょうけん》分別、アア、立派な、好い侍、かわゆい、忠義の者ではある。人に頼まれたる者は、然様のうては叶わぬ。高禄をくれても家隷《けらい》に有《も》ちたいほどの者ではある。……しかし大すじのことが哀れや分って居らぬ、致方無い、教えの足らぬ世で、忠義の者が忠義でないことをして、忠義と思うて死んで行く。善人と善人とが生命を棄てあって、世を乱している。エーッ忌々しい。」
 全然二人の予期した返答は無かったが、ここに至って、此の紛れ入り者は、何の様な者かということが朧気《おぼろげ》に解って来た。しかし自分達が何様扱われるかは更に測り知られぬので、二人は畏服《いふく》の念の増すに連れ、愈々《いよいよ》底の無い恐怖に陥った。
 男はおもむろに室《へや》の四方を看まわした。屏風《びょうぶ》、衝立《ついたて》、御厨子《みずし》、調度、皆驚くべき奢侈《しゃし》のものばかりであった。床の軸は大きな傅彩《ふさい》の唐絵《からえ》であって、脇棚にはもとより能《よ》くは分らぬが、いずれ唐物と思われる小さな貴げなものなどが飾られて居り、其の最も低い棚には大きな美しい軸盆様のものが横たえられて、其上に、これは倭物《わもの》か何かは知らず、由緒ありげな笛が紫絹を敷いて安置されていた。二人は男の眼の行く方《かた》を見護ったが、男は次第に復「にッたり」に反った。透《す》かさず女は恐る恐る、
「何卒わたくし不調法を御ゆるし下されますよう、如何ようにも御詫《おわび》の次第は致しまする。」
と云うと、案外にも言葉やさしく、
「許してくれる。」
と訳も無く云放った。二人はホッとしたが、途端にまた
「おのれの疎忽は、けも無い事じゃ。ただし此|家《や》の主人《あるじ》はナ」
と云いかけて、一寸口をとどめた。主人と云ったのは此処には居らぬ真《まこと》の主人を云ったことが明らかだったから、二人は今さらに心を跳《おど》らせた。
「実は、我が昵懇《じっこん》のものであるでの。」
と云い出された。二人は大鐘を撞《つ》かれたほどに驚いた。それが虚言《うそ》か真実《まこと》かも分らぬが、これでは何様いう始末になるか全く知れぬので、又|新《あらた》に身内が火になり氷になった。男はそれを見て、「にッたり」を「にたにたにた」にして、
「ハハハ、心配しおるな、主人は今、海の外に居るのでの。安心し居れ。今宵《こよい》の始末を知らそうとて知らそう道は無い。帰って来居る時までは、おのれ等、敵の寄せぬ城に居るも同然じゃ。好きにし居れ、おのれ等。楽まば楽め。人のさまたげはせぬが功徳じゃ。主人が帰るそれまでは、我とおのれ等とは何の関りも無い。帰る。宜かろう。何様じゃ。互に用は無い。勝手にしおれおのれ等。ハハハハハハ、公方《くぼう》が河内《かわち》正覚寺《しょうがくじ》の御陣にあらせられた間、桂の遊女を御相手にしめされて御慰みあったも同じことじゃ、ハハハハハハ。」
と笑った。二人は畳に頭《こうべ》をすりつけて謝した。其|間《ひま》に男は立上って、手早く笛を懐中して了って歩き出した。雪に汚れた革《かわ》足袋《たび》の爪先の痕《あと》は美しい青畳の上に点々と印《いん》されてあった。

   中

 南北朝の頃から堺は開けていた。正平の十九年に此処の道祐《どうゆう》というものの手によって論語が刊出され、其他|文選《もんぜん》等の書が出されたことは、既に民戸の繁栄して文化の豊かな地となっていたことを語って
前へ 次へ
全17ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
幸田 露伴 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング