、恐ろしいものにでも打のめされたように大動揺したが、直ちに
「ム」
と脣《くちびる》を結んで自ら堪えた。我を失ったのであった。大努力したのであった。今や満身の勇気を振い起したのであった。勇気は勝った。顔は赤みさした。
「アア」
という一嘆息に、過ぎたことはすべて葬り去って終《しま》って、
「よいわ。子は親を悩ませ苦めるようなことを為し居っても、親は子を何処までも可愛《かわゆ》く思う。それを何様《どう》とも仕ようとは思わぬ。あれはかわゆい、助けてやらねば……」
と、自分から自分を評すように云った。たしかにそれは目の前の女に対《むか》って言ったのでは無かった。然し其調子は如何にもしんみりとしたもので、怜悧《りこう》な此の女が帰って其主人に伝え忘れるべくも無いものであった。
一切の事情は洞察されたのであった。
女の才弁と態度と真情とは、事の第一原因たる吾《わ》が女主人の非行に触れること無く、又此|家《や》の老主人の威厳を冒すことも無く、巧みに一枝《いっし》の笛を取返すことの必要を此家の主人に会得させ、其の力を借《か》ることを乞いて、将《まさ》に其目的を達せんとするに至ったのである。此家の主人の処世の老練と、観照の周密と、洞察力の鋭敏とは、一切を識破して、そして其力を用いて、将に発せんとする不幸の決潰《けっかい》を阻止せんとするのである。しかも其の中でも老主人は人の心を攬《と》ることを忘れはし無かった。
「分った。言う通りにして計らってやる。それにしてもそちは見上げた器量じゃ。過ちは時の魔というものだ、免《ゆる》してやる。口も能《よ》く利ける、気立も好い、感心に忠義ごころも厚い。行末は必ず好い男を見立てて出世させて遣る。」
と附足して、やさしい眼で女を見遣った時は、前の福々爺《ふくふくや》になっていた。女はただ頭《かしら》を下げて無言に恩を謝するのみであった。
「ただナ、惜いことは其時そちが今一ト[#「ト」は小書き]働きして呉れていたら十二分だったものを。其様に深くは、望む方が無理じゃが。あれも其処までは気が廻らなかったろうか。」
「ト仰《おっし》ありまするのは。」
「イヤサ、少し調べれば直《じき》に分ることだから好いようなものの、此方《こなた》は何の何某《なにがし》というものの家と、其男めには悟られて了って居ながら、其男めを此方では、何処の何という者と、大よその見当ぐ
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