わらがよい》をなす遊冶郎等のいはゆる猪牙船《ちよきぶね》を乗り込ませしところにして、「待乳沈んで梢のりこむ今戸橋、土手の相傘、片身がはりの夕時雨、君をおもへば、あはぬむかしの細布」の唱歌のいひ起しは、正しくはこの渠のことをいへるなり。今もなほ南岸の人家に往時《むかし》の船宿のおもかげ少しは残れるがなきにあらず。
○待乳山は聖天の祠あるをもて墨堤より望みたる景いとよし。あはれとは夕越えて行く人も見よの茂睡《もすい》の歌の碑は知らぬ人もなく、……の多き文章を嘲つて、待乳山の五丁の碑ぢやアあるめえし、と某先生が戯れたまひしその碑の今に立てるもをかし。こゝの舞台は隅田川を俯視《ふし》すべくして、月夜の眺望《ながめ》四季共に妙に、雪のあしたに瓢酒《ひさござけ》を酌んで、詩を吟じ歌を案ぜんはいよ/\妙なり。仙骨あるものは登臨の快を取りて予が言の欺かざるを悟るべし。待乳山の対岸のやゝ下に
○三囲《みめぐり》祠あり。中流より望みてその華表《とりい》の上半のみ見ゆるに、初めてこれを見る人も猜《すい》してその三囲祠たるを知るべし。この祠の附近よりは川を隔てながら、特《こと》に近※[#二の字点、1−2−22]と浅草なる観音堂ならびに五重塔凌雲閣等を眺め得べし。またこのあたりの堤下、上は柳畑辺より下は三囲祠前の下流十間までの間は有名なる
○鯉釣場にして、いはゆる浅草川の紫鯉を産するところなれば、漁獲の数甚だ多からざるにかゝはらず釣客の綸《いと》を垂るゝもの甚だ少からず。川はこれより山の宿町、花川戸、小梅町、新小梅町の間を下りて吾妻橋に至るなるが、東岸の方の深かりしは漸く転じて、中流もしくは西の方の深からんとするの勢をなす。新小梅町と中《なか》の郷《ごう》との間、一渠東に入るもの
○枕橋、源森橋《げんもりばし》の下を過ぎて業平町に至る。この水路は狭けれども深くして、やゝ大なる船を通ずべく、業平町に至りて後左すれば、いはゆる
○曳船川に出で、田圃の間を北して遠く亀有に達し、なほ遠くは琵琶溜より中川に至る。但し源森川と曳船川との間には水門あり。また源森川の流れを追ふて右に行けば、いはゆる
○横川に出づ。横川は業平橋報恩寺橋長崎橋の下を経、総武鉄道汽車の発著所たる本所停車場の傍を過ぎ、北辻橋南にてかの隅田川と中川との連絡するところの竪川に会し、南辻橋菊川橋猿江橋の下を過ぎて小名木川に会し、扇橋その
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