を供えて、そらから御膳をあげるので、まだ此上に先祖代々の忌日命日には仏前へ御糧供というを上げねばならぬ。これはたとえ味噌汁に茄子か筍の煮たのにせよ御膳立をして上げるのだから頗る手間がかかるので、これも過去帳を繰って見れば大抵無い日は無い位のもの。また亥の日には摩利支天には上げる数を増す、朔日十五日二十八日には妙見様へもという工合で、法華勧請の神々へ上げる。其外、やれ愛染様だの、それ七面様だのと云うのがあって、月に三度位は必らず上げる。まだまだ此外に今上皇帝と歴代の天子様の御名前が書いてある軸があって、それにも御初穂を供える、大祭日だというて数を増す。二十四日には清正公様へも供えるのです。御祖母様《おばあさま》は一つでもこれを御忘れなさるということはなかったので、其他にも大黒様だの何だのがあるので、如何な日でも私が遣らなくてはならない務めは随分なものであった。勿論厳格に仕付けられたのだから別に苦労には思わなかったが、兎に角余程早く起き出て手捷くやらないでは学校へ往く間に合うようには出来ないのみならず、この事が悉皆済んで仕舞わないうちは誰も朝飯を食べることは出来ないのでした。斯《こ》のように神仏を崇敬するのは維新前の世間の習慣《ならわし》で、ひとり私の家のみのことではなかったのだが、私の家は御祖母様の保守主義のために御祖父様時代の通りに厳然と遣って行った、其衝に私が当らせられたのでした。畢竟《つまり》祖父祖母が下女下男を多く使って居た時の習慣が遺って居たので、仏檀神棚なども、それでしたから家不相応に立派でした。しかし観行院様はまた洒落たところのあった方で、其当時私に太閤が幼少の時、仏像を愚弄した話などを仕てお聞かせなさった事もありました。然し後年、左様私が二十一歳の時、旅から帰って見たら、足掛三年ばかりの不在中に一家悉く一時耶蘇教になったものですから、年久しく堅く仕付けられた習慣も廃されて仕舞って、毎朝の務も私を限りに終りました。こういう家庭のありさまでしたから、近来私の一家族の中に、学校へ行くのに眼が覚めぬなどというもののあるのを聞くと、思わず知らず可笑しく思う位です。
学校へゆくほど面白いことは無いと思って居たため、小学校へ通って居る間一日も欠席したことは無かったでした。家の中の方が学校よりも都《すべ》て厳格で、山本町に居る間は土蔵位はあったでしたが下女などは置い
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