はない。物に接することさへも出来ないのに、巧に事に処さんとするは、イロハも知らんで難しい字を書かんとするが如きものである。
例へば、我が帽子、我が衣服の如きは我物であるから、如何《どう》扱つてもよいやうなものであるが、これを正当に扱ふには、やはり心の持ち方の良否《よしあし》があつて、其処に違つた結果を生じる。例へば帽子を冠るにもリボンの結目《ゆはひめ》を左にして冠るべきか右にして冠るべきか、その何方《どちら》かゞ正しければ、何方かゞ間違つてゐる。それを何方でも関はぬとすれば、それは物に接する道を失つた訳である。袴をはき付けぬ人が、袴をはいて袴腰を前にしたといふ笑話がある、袴の事は誰でも心得てゐて、誰でも当を得た接し方をするものであるが、さてその他の物に接すると、仲々さうは不可《いか》ぬもので、どうも帽子を逆さに冠つたり、袴を逆にはいたりするやうな過失に陥り勝ちなものである。
さういふ事は何でもない、些細の事であると思ふけれども大変な大切な事で、その当を得ると得ぬとは、その人の心の有様を語つてゐるものである、その人の事業の順当に行くか行かぬかを語つてゐるものである。些細と見るのは間違ひである。若し袴を逆にはいたり、刀を右に差したりして、それで何でも関《かま》はぬと云つて居る人があれば、明かに、其人は心理的欠陥を有してゐる。さういふ人は朋友としても余り有難くない人である。況《ま》してさういふ人に使はれたり、さういふ人を使つたりするといふ事は考へ物である。何故と云へば、その人は横紙破りで、我ばかり強いといふ性格を示してゐるので、平たく申せば非常識の人間であるからである。
帽子や袴の事は誰でも知つてゐて、そんな事をするものもないが、一段進んで見るとそれに似た事で色々の接し方がある。例えば、日本家屋の部屋といふものは大抵は方形亦は矩形で、丸いのだの三角のだのは殆ど見当らぬ。それ故に、その部屋の内の色々の物の置き方も俗に云ふ畳の目なり[#「目なり」に傍点]に置けば都合が宜しいのである。然るに四角の火鉢を一ツ置くにしても、亦、机、本箱、煙草盆其他のものを置くにしても畳の目[#「目」に傍点]に従ふやうに置かぬ人が仲々多い。さう云ふ具合に置くと、室内は直に、乱雑、混乱、不体裁と、従つて不便を生じるものであるが、さて其処に気が注《つ》かないと誠に善い性格の人でも、その人が物に接す
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