円の弗箱から一万円出したつて五万円出したつて、比例をして見れば其人に取つて実は大金では無い、些少の喜悦税、高慢税といふべきものだ。そして其の高慢税は所得税などと違つて、政府へ納められて盗賊役人だかも知れない役人の月給などになるのでは無く、直に骨董屋さんへ廻つて世間に流通するのであるから、手取早く世間の融通を助けて、いくらか景気をよくしてゐるのである。野暮でない、洒落切つた税といふもので、いや/\出す税や、督促を食つた末に女房の帯を質屋へたゝき込んで出す税とは訳が違ふ金なのだから、同じ税でも所得税なぞは、道成寺では無いが、かねに恨が数※[#二の字点、1−2−22]ござる、思へば此のかね恨めしやの税で、此方の高慢税の如きは、金と花火は飛出す時光る、花火のやうに美しい勢の好い税で、出す方も、ソレ五万両、やすいものだ、と欣※[#二の字点、1−2−22]《にこ/\》として投出す、受取る方も、ハッ五万円、先づ此位のものをお納めして置きますれば私も鼻が高うございますると欣※[#二の字点、1−2−22]して受取る。悪い心持のする景色では有るまい。誰だつて高慢税は出したからうでは無いか。自分も高慢税は沢山出したい。が、不埒千万、人生五十年過ぎてもまだ滞納とは怪しからぬものだ。
 此の高慢税を納めさせることをチャンと合点してゐたのは豊臣秀吉で、何といつても洒落た人だ。東山時分から高慢税を出すことが行はれ出したが、初めは銀閣金閣の主人みづから税を出してゐたのだ。まことに殊勝の心がけの人だつた。信長の時になると、もう信長は臣下の手柄勲功を高慢税額に引直して、所謂骨董を有難く頂戴させてゐる。羽柴筑前守《はしばちくぜんのかみ》なぞも戦《いくさ》をして手柄を立てる、其の勲功の報酬の一部として茶器を頂戴してゐる。つまり五万両なら五万両に相当する勲功を立てた時に、五万両の代りに茶器を戴いてゐるのである。其の骨董に当時五万両の価値が有れば、然様いふ骨董を頂戴したのはつまり筑前守は五万両の高慢税を出して喜んでそれを買つたのと同じことである。秀吉が筑前守時代に数※[#二の字点、1−2−22]の茶器を信長から勲功の賞として貰つたことを記して居る手紙を自分の知人が持つてゐる。専門の史家の鑑定に拠れば疑ふべくも無いものだ。で、高慢税を払はせる発明者は秀吉では無くて、信長の方が先輩であると考へらるゝのであるが、大
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